この世界は、ひどく生きにくい。
その一言が、どうしても言えなかった。明確に自分の意思として口に出すことができなかった。言ったその瞬間、世界に見捨てられそうで怖かった。世界の定義もわからないくせに、見捨てられるも何もないのだけど。
そういう漠然としたものが、たまにある。
なんとなく『そう』思うものが、世界には確かに存在する。そうなのだと『知っている』ということが。
それは、小さな頃、どこか遠いところへ行く時に感じる不安感と似ている。このまま、どこかに連れて行かれて、その場に置いて行かれるのではないか、という恐怖と。
そんなことがあるはずないのに。
ありえないことが、本当にありえないかどうかはおいといて。
世界は矛盾に溢れていて、私たち子どもにはつらいものがある。
何故、子どもにとってこの世界は生きにくいのだろう。大切にされているのに。世間的には、護るべき対象であるにもかかわらず。
私たちがこの世界で生きていくのは、ひどく困難だ。
充実した気持ちで生きていくためには、という意味で。
何かを必死になって見つけないといけない。そう、『何か』を。それが何かもわからないのに。
ぼんやりと、淡々と、それだけのことを一息に言った。そうしたら突然、前触れもなく、気持ちのいいほど笑われた。
笑った相手がとても楽しそうだったので、私も笑うことにした。ただ、どうして笑うのかと、視線で問いかけた。
私の視線を見ないまま、その人は言う。涙の滲んだ目元をぬぐいながら、「わからない?」と。はっきりとした、綺麗な声で。
「子どもが世界で生きにくいのは、大人が世界を作っているからだよ」とても、単純な答えだった。世界は大人のものという、ひどく当たり前で切ない答え。「でも、その中にも多分、さらに色んな事情がある。世界を形作る、全体で見ればごく少数の人も、数だけ見れば少ない数じゃない。残念ながら。でも、最終的にいろんな思惑があるから、その人たちにとっても生きやすいに世界なんてならない。結局、世界は誰にとっても生きにくい世界になってる。生きやすい世界じゃないなら、当然、そこにあるのはその逆になる」
ずいぶん乱暴な理屈だと思った。希望がない。
「幸せに生きている人だっているじゃない」
そう、ぼやく。言い返すとか、そういう意思はなくて。ただ、思いついた言葉を。
「そう思い込んでいるだけだよ。結局、世界は優しくなんかない」
「でも、それなら。感じている幸福を勘違いだというなら、何のために生きてるの」
「それは個人によって変わっていく」
ずるい。おもわず眉を寄せた。そうやって、この人は論点や結果をぼかしていく。いつの間にか、何について話をしていたのかがよくわからなくなってくる。
そして、論点をぼかされて、逃げられて、最後には無意味な会話になる。いつもそうだ。それが悔しい。
「世界で生きているのがつらいというなら、いったいどこまでが世界なのか。それを知る必要があるとは思わない? どこまで、逃げればいいのか」
綺麗な声で、突き放すような言葉を言う。
「世界から逃れるのなんて簡単だ、眠ればいい」
「どういう意味で」
苦笑しながら問い返した。『眠る』には、二つ意味がある。また、笑い声が聞こえた。笑いながら、さらりと言う。「どっちでもいい」と。遠まわしにものすごいことを言われた気がするけれど、遠まわしなのでそれほど本気にしないことにする。
「世界って言うのは、認識できる範囲のことだ。世界中のどこで何が起きたなんて、その情報が入らなければ知りえない。世界は生命の数だけ存在する。月並みな台詞だけれど、それは正しく真実である」
笑いながら言うのを、ようやくやめた。何度か呼吸を整えて、小首をかしげて私のほうを見てくる。可愛い子ぶったって駄目だ。そういう意味を込めて、じと、と睨んだ。
「なら、意識を失えば世界からは逃れられる」
ほら、簡単なこと。その人は言った。
「眠って、目が醒めて、そうして世界に絶望するなら、それもいい。悪態をつきながらも、結局やることがある内はベッドから身体を起こして、着替えて、出かけていく。そういうサイクルがある。そういう社会で生まれ育ってる」
そもそも人には、と、綺麗な声はさらに続ける。
「生きたいという本能を持っているから」
そうして、声は黙った。私はそれに納得できない。だって、選ぶ人は選ぶのだ、もうひとつの、『眠る』方を。例え、『眠る』などという穏やかなものでなくとも。それを、だいぶ言葉を選びながら問いかける。そんなの、とその人は肩をすくめて言い返した。
「その、『眠る』という選択をしたことのある人にしかわからない。いろんな理由があるんだ、きっと。その選択をさせた世界のせいと思えば多少は楽だろうけど、一番楽なのは自分のせいにすることだよね、何もかもを」
突然話の方向が変わり、私は眉をしかめた。自分で始めた会話でさえも、この人は結論をぼかすのか。だからといって、修正するのはひどく骨が折れそうだった。というか、そんな気分でもない、何故この人が始めた会話の道筋を、私が調えなくてはならないのか。そう思い、諦めて、私はそのまま会話を続けた。
「どうして? 自分のせいにするのは辛いでしょう。息ができなくなるくらい、小さくうずくまっていたくなる。何もできなくなる」
「けれど、それ以上に怒り続けるのもしんどいだろう」
一瞬、呼吸を止めた。何故だかわからないけれど、思わず息を詰めた。しばらく黙って、見詰め合う。私の口から零れ落ちたのは、なんともまぬけな台詞だった。
「……そうなの?」
え、とその人は振り返る。そうか、というように、また笑った。この場でこの人が笑うのは何度目だろうと、ぼんやりと考える。よく笑う人だ。嫌いじゃない。
「キミは、怒らないね」
「怒る必要はないもの。誰も私を怒らせないし」
当たり前のように言うと、その人は少し困った顔をした。曖昧な、誤魔化すような表情にも見える。この人が何かをうやむやにすることにはもう慣れた。だから、そのままいつものように話題が変わるのを待った。
「―――『怒り』っていう感情は、一種の爆発的なエネルギーだと思うんだ」
話題は変わらず、間の会話をなかったことにするように、その人は続けた。
「だから、それを継続させるには相当な覚悟がいる。人を恨み続けるには、覚悟がいるんだ。人は忘れてしまう生き物だから。ずっとその感情を覚えていようとする、燃え盛る火を消さない、覚悟がさ」
綺麗な声は、語尾を小さくして消えてなくなった。
何も言わずに、ぐしゃぐしゃと私の頭を撫でる。「わからない」と私は言った。「どうしてそこで火が出てくるの?」その人は苦笑する。困ったように笑いながら、「そのうちわかるよ、きっと」と言った。
髪の毛をぐしゃぐしゃにされながら、私はぼんやりと呟く。
「私は、怒らないけど、嫌いになる」
頭を撫でる手が、止まった。戸惑いながら、顔を上げる。
「嫌なことがあったら、ただ、嫌いになる。かな」
頭に浮かんだ言葉をただつぶやく。目の前に、戸惑ったような瞳があった。この人にこんな顔をさせたのは初めてだ、思わず微笑む。
「怒ったりしない。怒りをぶつけたりしたことはないけれど、あぁ、嫌いだな。って、ただ、思う」
「それは」
困惑した様子で、声は言った。
「手厳しい」
苦笑交じりだ。
相変わらず意味が汲み取れず首をかしげると、再び頭をぐしゃぐしゃと撫でられた。「とても手厳しいね、キミは」そう言って、やはり苦笑する。
「それはつまり、『許さない』ということだ。いや、許すもなにも、弁解の余地を与えない……というよりも」
困惑気味の声に、黙って耳を澄ませる。
「失敗したことを、相手に教えない。ということか」
納得できる言葉が見つかったのか、その声はどこか満足げだった。「相手が気づいた時には、手遅れってことか」キミの心は遠く離れてしまっているというわけだね。「うん、手厳しい」 言っていることはよくわからなかったけれど、なんとなくそういう意味だ。私はうなずく。返ってきたのは、やはり苦笑だ。それが、なんだか寂しい。
「怒らないのは、よくないの?」
「というより、キミに一度壊れた関係を修復しようという気がないことのほうが問題だろうね、この場合」
あー。今度はちゃんと分かった。一度壊れてしまった人間関係、それを修復する気がおきないのは、気づいている。その程度で壊れてしまうものなら、そんなものは要らない。思いが先に出てしまう。他の全てを追い抜いて、その選択を迷わせない。なにより、離れていくものを追いかけるのが面倒だった。それに。
「本当に一緒にいたい人とは、壊れないからいい」
「へぇ?」
「だって、一緒にいたい人は嫌いにならないもの」
怒るという段階がない以上、好きか嫌いかそれで終わり。「どんなことをされても、好きな人だったら、まぁいいかってなる」ぶはっ、と盛大に噴出す音がした。笑っている。つられて私も笑うと、頭をはたかれた。
「もう、何でもいいよ、キミは」
笑い声交じりにそういわれ、私はうん? と首を傾げて返す。
「いいって、言ったら―――いいんだ」
ひどく無理矢理な断定。困惑したけれど、うん、とうなずいた。この人がいいと言ったら、それでいい。これで私の不安はすべてなくなる。この人の肯定が、何よりも安心をくれる。
「今わからないことが、いつかわかるようになるかな」
「なるよ、きっと。知りたいと思い続ければ」
漠然と、私はその人の言葉を信じた。この人だけは信じられると、頑なに信じていた。
誰か一人でも信じられる人がいるならそれは、幸福なことだ。
親でも、兄弟でも、友達でも、教師でも、―――他人でも。
それは崇拝にも似ている。信じられる人と、信頼できる人、は、意味が違う。この違いが、わかるだろうか。語彙の少ない私が、どんなに考えても説明できない、この違いが。
辞書で引けば、何か答えが出るのだろうか。果たしてそれは、私の答えと同じなのだろうか。
そういう漠然としたものが、たまにある。
なんとなく『そう』思うものが、世界には確かに存在する。そうなのだと『知っている』ということが。
ふと、気付く。
それなら、この人がいるということだけで、この世界はやさしい。
そう、思える。
(090823)
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