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■神様の歌■第三章■第五話■

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 どうして。
 ソナタは寝台の上で眠っているティムを前にして、目を伏せ拳を握り締めていた。
 ラナイトは、今ここにはいない。ティムはすぐに目覚めるだろうから、目が醒めたら呼んでくれと言い置いて、出て行ってしまった。
 心細くて仕方が無かった。やはり、来るべきではなかった。泣きそうになりながら、ソナタは唇をかむ。
「ティム……」
 お願いだから、今すぐ起きて。そう念じながら、ソナタはじっと、ティムが目覚めるのを待っていた。



 ホールを見たとたん、突き抜けた衝動は恐怖だった。
 階段を上り、見下ろした光景は恐ろしかった。
 眠っている間に、夢を見る。
 一人きりの部屋、外から聞こえるざわめき。何人もの人の声。
「やっぱり、騙していたのね!」
 女の悲痛な声が響いた。
 驚いて、顔を上げる。鏡を見れば、黒髪の、幼い少年が泣きそうな顔でうずくまっていた。何の疑いも無く、それが自分なのだとティムはわかった。
 まだ、言葉もちゃんと喋れているか怪しい年頃。確かに、この頃の記憶が無いのも無理はなく、ティムはこんな部屋を知らない。
 けれどそれは、夢による空想なのか現実なのかも、わからないと言うことだった。
 男が、声を張り上げている。
「待ってくれ、落ち着け」
「嘘つき、ただ、病気だからって、王はそういったじゃない! 嘘つき、嘘つき、大嫌い! 大嫌いよ! 王族なんて大嫌い!」
「おかあさん……?」
 扉のすぐそこで響いた少女の声に、ティムは立ち上がった。大好きな声だった。好きで好きでたまらなくて、いつだって一緒にいたいと願った声。
 先ほどまで感じていた言い合いに対する恐怖も忘れ、騒ぎも気にせず、その声だけを目指してよろよろと歩き出す。うまく動かない体がもどかしく、そのまま扉に体当たりすれば、ちゃんと締まっていなかったのか扉は容易に開いた。
 目当ての少女は廊下の先にいて、そのさらに向こうでは先ほどの男と女が言い争っていた。ここはいったいどこなのか、女は欄干に背を預け、手を伸ばす男の手を何度も振り払っていた。
「おかあさんっ」
 長く、黒い髪を持っているその少女は、おそるおそる女の下へ近寄った。鋭く、女が少女を振り向く。
「どうして、あなたを産んでしまったんだろう……」
 押し殺した声で女が呟き、男が息を呑んだ。少女は、わからない、というように足を止めた。
「どうして、生まれた瞬間、私自身の目で見て確認しなかったんだろう。可能性が無いわけないのに、そうよ、そうしていれば、生まれた瞬間こんな子ども殺してやったのに!」
 幼いティムはその言葉を理解しない。だから、一時も立ち止まらずに少女だけを目指した。
 けれど、遠くで見ているティムには、それがどれほど恐ろしい言葉かわかった。すぐに、これは悪夢なのだと、頭を抱える。目覚めろ、と吐きそうになりながら何度も唱えた。
「何をーーーどうしてそんなことを言うんだ、この子は、この子達は、私達の宝じゃないか。私達が愛し合って、生まれた、唯一のーーー」
「そうよ!」  女は狂気と共に泣き叫んだ。
「貴方なんて愛さなければよかった! 身体なんて許さなければよかった! 誰かを愛したいなんて、望まなければ! そんなおろかで恐ろしいこと、貴方となんて、出会わなければよかった!」
 男はもう何も言わなかった。握り締めた拳が、ぶるぶると震えている。
「いいえ、私が産まれなければよかったんだわ。そうすれば、こんな子ども達を産むことも無かった。奇跡なんて何よ、誰が神に愛された? 違うわ、こんなものは呪いだわ。私は、子ども達を愛してる。なのに、私はいつか、その子ども達に恨まれるのだわ。『どうして私なんかを産んだの?』と、憎しみに満ちた瞳できかれるの! 私は、その日が怖くて怖くてたまらない。イヤよ、娘を神に差し出すなんて、絶対にイヤ。けれど、叶わないのでしょう? 敵わないのでしょう? 世界が、それを許しはしないのでしょう? それなら、私はーーー」
 糸が切れたように、女はその場に泣き崩れた。駆け寄る少女を、抱きしめる。
「ごめん、ごめんね、……セーラ……」
「おかあさん、なかないでよ。……おとうさん、おかあさん、どうしてないてるの? おとうさんが、なかしたの?」
 少女の問いに、男は力なく首を振った。静かに、女の傍に跪く。
「私には、止める権利を持っていない」
 悲しそうな、落ち着いた声。ティムは、この声を知っていた。気付いた瞬間、呼吸が止まる。嘘だ、と夢の中で首を振った。優しい声、もし、もっと早く会って、共に過ごした時間が長かったなら、きっとどこまでも慕っただろう、あの、一瞬で好きになったーーー。
「貴方がそんなに苦しいというのであれば、私はーーー」
 苦しそうに、男は女に言った。
「嘘よ」
 泣きながら、女は呟いた。
「大嫌いなんて嘘。全部好き、皆愛してる。ティムも、セーラも、貴方も。でも駄目なの、私、弱いのよ。きっと、心が壊れてしまう。いつか、貴方たちを傷つける。今も!」
 突然女は立ち上がり、後ろに飛び上がって欄干に腰掛けた。男が、少女を女から引き離す。
 その間も近づき続けていたティムは、もうすぐ傍にいた。ゆっくり、ゆっくり。意図していたわけではない、けれど、静かに歩いていたために、柔らかい絨毯が僅かな音でさえも吸収してしまっていた。男は、ティムが近づいていることに気が着かなかった。女はティムに気付いた。目を細めて、泣き笑いのような顔をして、
「愛してる。貴方たちが死ぬ時まで愛してあげられなくて、ごめんね」
 さいごのことば。
 鮮やかに、笑って。
 ゆっくりと、女の身体は欄干の向こうへ傾いてーーー。

「セラフィーナ!」

 男が悲鳴と共に、腕の中に少女を抱き上げた。何も見ないように、しっかりとその顔を覆う。男自身も顔を伏せ目をきつく閉じていた。
 何も知らない幼いティムは、そのまま歩き続ける。遠いどこかで、ティムは悲鳴を上げた。それ以上行くな! と、音にならない声を何度もあげる。
 幼いティムは欄干にしがみつく。今のティムに覚えのある、美しく装飾された、欄干。
 高い、天井。遠い、床。すぐ脇にある、階段。
 ここは、どこだ。
 幼いティムの視線は、一点に固まっていた。
 ラークワーナ城玄関ホール。
「おねえちゃん……」
 幼いティムが呟いたのは、父の腕の中にいる、少女にだった。
「……母……さん?」
 呟いたのは、ティム自身だった。
 眼下に見える、逸らしたくても逸らせない光景。一階の、大理石の床一面に広がるのは、赤い、赤い……。



「うわああああああああああああああああああ!」
 悲鳴が、やまない。遠くで、ソナタの声がする、ラナイトの声が聞こえる。けれど、それだけだった。
 ティムの悲鳴は、止まらない。
 心が全てを拒否していた。たった今自分が見たものが、耳にしたものが。
「あぁ、あああああ、ああああああああああああああ!」
 ソナタの泣き叫ぶ声が、母の姿に重なった。
 母はもうこの世にいない、父はーーー、もし、間違っていないのなら、父だってもうーーー。
 自分の悲鳴を、どこか遠くに感じていた。
 あの少女は誰なんだろう。大好きだった。とても。優しい笑顔。いつだって、自分の味方だった。
 名前を呼ばれていた。
 なんだったっけ、そう、セーラ≠ニ言った。あの優しい父に、そう呼ばれていた。

 ならば、兄はどこに?

 鮮やかな金髪が、どこにも無かった。
 母の髪は、日の光を受けたように輝く琥珀色。父の髪は、優しい茶。
 少女の髪は、漆黒。ティムと同じ、黒い髪。
 ならば、兄はどこに?
 どこにいた?
 一瞬、考えてはいけない言葉が思い浮かぶ。

 いつから、いたんだ?

 悲鳴は、もう聞こえなかった。ゆるゆると焦点を合わせれば、ソナタの泣き顔が飛び込んでくる。
「……」
 ソナタをすぐさま安心させてやりたいのに知ったことの衝撃と、疑うことの恐怖のせいで、言葉が出てこない。ティムの目が、しっかりとソナタを捉えると、ソナタは顔をくしゃくしゃにゆがめ、ティムにしがみついた。
 すぐ隣で、ラナイトが心配そうにティムを見てる。少しだけ、ソナタを気にしながら、問いかけてきた。
「平気か」
「……」
 答えることが、できなかった。
 よかった、よかった、と、何度も呟くソナタをの背に、しっかりと手を回し、ごめん、と、一言だけ囁いた。
「なんだか、今、頭の中がぐちゃぐちゃで」
 頼りない自分の声が情けなく、苦笑しながら言った。
「もう少し、休んでも良いかな?」
「もちろん」
 ラナイトの言葉は優しくて、この人は、酷いことを言わないな、とティムは思った。弱ってるからこそ、そう思うのかもしれない。
 けれど、と布団の下で拳を握り締める。
 こんなことでは、守れない。
 支えたいんだ、自分は。
 なのに、今のままではーーー。



 ソナタとラナイトが部屋から出て行った。
 布団の上から、膝を抱えてうずくまる。小さな声で、囁いた。
「……、お父……さん…………」

 こんな時、唯一、傍にいて欲しいと願う人。
 話を聞いて、どうか笑顔で、うなずいて。


 いるのかどうかわからない神様を、今宵ばかりは呪いたい。


「ドゥーノ、さん……っ」


 世界はなんて残酷なんだろう。


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