静かな空間で目を醒ました。何の物音も無く、自然に目を醒ますのは久しぶりで、ラリスは自分が満足しうるだけの眠りを得ることができたのだと気づき、息を吐く。
起き上がって伸びをしようとしたところで、眩暈と共に身体から力が抜けた。うろたえる前に、自分が熱を出していたことを思い出す。
一人闇の中で苦笑して、寝台から抜け出した。すぐ傍らから聞こえる寝息に、はっと息を呑む。
そろりと漆黒の瞳が捉えたのは、床に座り込み、寝台を背もたれにして眠っている金髪の青年の姿だった。姿を見た瞬間、ぎょっと心臓が飛び跳ね、ラリスは石のように身を硬くする。
けれど全く身動きせず、規則正しい呼吸を続けているルースを見て、本当に深く眠っているのだと気が付き、ラリスは静かに、俯いているルースの顔を覗き込んだ。
(……まだ、ボクたちは子どもなんだよね)
世間一般的には、一五で成人と言われていても、何かを守れるほど力を持てるのはまだ先の話だと、ラリスは知っている。
いつも頼ってばかりで、弱さをラリスには絶対見せないルース。
(時々、フィーリには色々言ってるのが、聞こえるんだけどな)
ルースとは、会ってほんの数日しか経っていないはずのフィーリなのに。と、少しだけ嫉妬する。
頼ってばかりの彼の寝顔は、年相応の、青年の顔。眉間に寄せられがちな皺が今はなく、いつもより少しだけ幼い印象。
ラリスは小さく笑みを向けた後、寝台につかまりながらゆっくりと立ち上がった。改めて自分の着ているものに気が付き、身体が強ばる。
ヒラヒラした、どこか頼りない薄い生地。恐らく、熱を出して意識が無いうちに、誰かが着替えさせたのだと思うが、女物の寝巻き。
思わずため息がでた。
なんというか、どうしても慣れない。照れくさい。恥ずかしい。
そして。―――認めたくない。
ラリスは、自分が女であることを、心のどこかで認めたくなかった。それなのに、こんな服を着てしまえば―――。
思考をやめ、何か羽織るものは無いかと辺りを見回す。明かりは全て消えていたが、窓から入る月明かりで、十分室内は明るかった。
音も無く衣装棚を覗けば、一枚の布があった。身体に巻きつけて、そっと部屋を出る。扉を出たはずなのに、また部屋があって面食らった。大きな窓に、すわり心地の良さそうな椅子。居間のような空間から、寝室を振り返り、想像以上の好待遇に驚く。
音を立てぬよう、そっと部屋を出て、迷い無く廊下を突き進んだ。
熱に浮かされた歩みは踏み込みが甘く、今にも倒れそうで、ふわふわした感覚がどこか面白い。すっかり狂ってしまったのかと、苦笑する。
階段を下りて、中庭に向かった。一度も間違えずに道順を辿り、ガラスの扉を押し開ける。
静かな空間だった。
誰もが寝静まっている時間帯。見張りの兵士や夜更かしさん以外は、誰も起きていないだろう。
ラリスは近くの椅子に座った。だるい身体を冷気にさらし、こんなことをすればまた風邪が悪化するだろうかと考える。そこに―――。
「ラリス?」
息を呑む。優しい声が、離れたところから響いた。
振り向くことすらできず、じっとラリスは待った。走るような足音が響き、背後からやってくる。ラリスの目の前に回りこんできた青年は、心底驚いたまま、漆黒の瞳でラリスを見つめた。
「驚いた。どうしてこんなところに? シエスタにいるものだと思ってた。もしかして、兄さんもいるの?」
「久しぶりだね、ティム」
だるくて、振り返らずにつぶやく。ティムは何も言わずに隣に座った。丈の長い、フードの付いた外套が、一見異様で、それなのにどこか似合っているのが面白い。
「なんだか様子が変だ」
「風邪引いてるからね」
そう言ったとたん、ティムが立ち上がり、ラリスの前に座り込む。どうしたの? とラリスが訊ねれば、なんで寝てないのさ、と険しい顔を向けられる。
「眠りつかれたよ」
なんだか寒気がする。なのに、暑い。少し迷って、ラリスは上に羽織っていた布を肩から落とした。
「ラリスッ」
焦ったようなティムの声に、緩慢な動作で顔を上げる。
「なに?」
「なに、じゃない。なんでそんなに薄着なんだよ。お願いだからこれ着て。風邪引いてるんでしょ?」
言って、ティムは外套の下に着ていた自分の上着を脱いで、ラリスに差し出した。ラリスはクスクス笑いながら、ありがとう、と受け取った。ティムの手伝いを受けながら、上着に袖を通す。ティムのぬくもりがした、どこからか、父の香りがした。
ティムから手を差し出されて、首を傾げてその顔を見上げる。
「部屋に戻ろう、ラリス。おくるから」
「……お願いしようかな」
その優しさに、おもわずうつむきがちに言う。
頭上でティムの顔がそっぽを向いた気がした。
熱に浮かされて赤い顔したラリスが、綺麗に見えたとか言ったら……、ルースに殴られそうだ。
ティムは一つ考えて、一人小さく苦笑した。
おくるといったものの、ティムはラリスの部屋を知らない。彼女の案内に不安を感じつつ、フラフラと歩くラリスを支えて歩き続けた。
「この部屋だよ。ルースが寝てるから、静かにね」
風邪なんじゃなくて、単にアルコールが入ってるだけなんじゃないか。ティムはなんとなくそう思いながら、ラリスの後に続いた。
そんなものはただの願望で、このままじゃラリスが壊れそうだったからそう思ってみただけだ。風邪だと聞いただけで、こんな風に心配になるのは何故だろう。
居間から寝室に向かう扉は開いていた。そっと覗き込むと、唖然とせざるを得ない光景が、目の前に飛び込んでくる。
「……困ったな」
すぐ隣で、ラリスの苦笑する声。視線を上げれば、なぜだか寝台の上で眠っている、ルース。おそらく、中途半端に開いた扉を不審に思って確認に入った誰かが、寝かせたのだろう。
「驚いた、まるで子どもみたいだ」
「さすがに、ルースと同じ布団で寝るほど馬鹿じゃないよ」
独り言のようにラリスは言った。ルースの肩に毛布をかけて、居間に戻る。ティムはそれを慌てて追う。居間に戻ったとたん目に入った光景、ラリスのしている動作に、思わず名を呼ぶ。
「ラリス?」
「ティム、おくってくれてありがと。ここで寝るから、気にしないで」
長椅子の上に横になろうとするラリスを、うでを伸ばして引き止めて、ティムは少しだけ考える。
「ルースなんて、僕が蹴落とすよ?」
「あの人、ここしばらくちゃんと寝て無いんだ。一睡もせずに馬を飛ばしてこの城に着いたと思えば、床に座って、寝台に背を預けて、見張るみたいに浅い眠りを繰り返してる。そんな状態でずっと寝てる。だから、ちょっとくらい、いいでしょ?」
それなら、とティムは返した。ラリスがそんな風な返事をすることなんて、最初からわかっている。
「僕の部屋に来る?」
ラリスの返事はしばらく無かった。時間をかけて、慎重に、けれど簡潔に、返事をする。
「いく」
ラリスが、優しく笑った。ティムもつられて笑って、行こう、と立ち上がろうとするラリスに手を伸ばし、抱き上げる。
「ティム?」
慌てるラリスの声には、何も言葉を返さなかった。
さっき二人が出会った中庭を突っ切って、離宮に向かう。
「ティムは、どうして中庭に来たの?」
「うん……なんだか頭が混乱してて、眠るどころの話じゃなくなって。涼もうと思って足を動かしてたら、中庭にいた」
どうやって話を逸らそうかと視線を這わせた。けれど、ラリスは追求してこない。ティムの首にしっかりと腕を回して、ぎゅっと力を込めてきた。
「ラリス?」
返事はない。込められた力は、弱くて、苦しくはないけれど、泣きそうなのを我慢しているのがわかって、悲しかった。
ティムはもう何も言わずに、空を仰ぐ。なんだか暗いと思っていたら、月が消えていた。雲が空を覆っていて、辺りは一面の闇だった。
それなのに、迷わない。ある程度まで見えていて、遠くの方、離宮の入り口に立っている兵士と松明が、よく見えた。
離宮の前、兵士傍まで来ると、ティムは穏やかな調子で問いかけた。
「何か飲み物は用意できる場所はないかな。温かいミルクとか」
「ティム様、それなら私が用意を……」
「だから、僕は平民だって。何度言ったらわかってくれるかなぁ。ソナタとは、友達なだけなんだよ」
ティムの言葉に、兵士は黙って首を振る。兵士がラリスのほうへと視線を向ければ、ラリスはニコリと笑って、「言う通りにしてあげなよ」と呟いた。
結局、飲み物は兵士が兵舎にて用意することになり、見張りが二人のうち一人減る。突然ティムがラリスを地面に下ろし、残った兵士の横に立った。
「さっきの兵士さんが戻るまで、僕が代わりになろうかな」
楽しそうに呟いて外套を翻すと、腰に下げていたものを抜き放つ。
ラリスが目を見開いて見ていると、それに気が付いたティムが、無邪気に笑って刃に手を添えた。
「君のために、取り戻した力だよ……って言ったら、笑う?」
「え……?」
「ラリスがずっと笑っていられるようにするために。ルースが無茶をしないために。ソナタが苦しい思いをしないために。ウィルが―――」
言葉が途切れた、慌てて口をつぐむその姿に、ラリスと兵士が顔を見合わせてクスクスと笑う。わかりやすい、あまりにもわかりやすい態度だった。
「ウィルを泣かせないため。でしょ」
ラリスが引き取るが、ティムはこたえない、そっぽを向いて、剣を鞘に収めた。沈黙の中少しして、向こうから兵士がやってくるのを見えた。ティムが慌てて駆け寄る。
「血ですかねぇ」
「んー? なぁに?」
前フリの無い兵士の言葉に、ラリスが返した。
「彼の父もまた、守るための剣を手にした」
「そんなの、知らないよ」
両手にカップを持ったティムが、ラリスの元に戻ってきた。一瞬ティムは彼女を見たまま固まって、目の前のラリスと手に持ったカップとを交互に見やり、最後には困ったように視線を泳がせる。
ラリスは笑って、少しだけなら平気だよ。とゆっくり立ち上がった。ティムの案内で、離宮の中へと姿を消す。
残された兵士二人は、顔を見合わせて嬉しそうに笑いあった。
「あのお二人が並んで笑っているのを見ると、やはり嬉しいな」
「あぁ」
片方が呟いて、片方が同意した。
二人、暗闇の中。職務に戻る。
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