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 マリウスの中は暗かった。ずっとずっと暗かった。音だけで世界を感知し、彷徨っていたから当然だとも知っていた。そのうち、自分もマリウスも、様々な機能が退化して動けなくなるんじゃないかとも思ったけれど、そこに恐怖はなかった。

 住んでいた場所を離れて、もう何年経っただろう。身体はマリウスのおかげで老いることを知らず、また、生命維持に私自身が気を配る必要も無かった。
 長い間、時の狭間を行き来して、私はただ目的地だけを忘れずに彷徨っていた。
「貴女が行くのはね、『未来』と呼ばれる場所よ」
 姉の言葉が、甦る。『未来』というのがどんな場所なのか、私は知らない。けれど、思考の許されなかった私は、拒むことなく指示を受け入れた。姉の話を信じれば、辿りついた先で何年過ごそうと、私が世界に戻った時、世界では数時間も経っていないという。
 それはとても信じられない話だ。ありえないことだと知っていた。
 私がマリウスに乗る者に選ばれたのは、突然『先』を当てはじめた姉が言ったからだ。

「マリウスに乗り込み『未来』に行き、この世界を救えるのはこの子だけ」
 最初は当然、誰もが信じなかった。私自身、突然どうしてしまったのだと不安になって、姉の横顔、黒い瞳をじっと見つめたのを覚えている。

 マリウスは、大きな船の名前だった。
 ある日突然、私の感知していない所から、国と国との大きな戦争が始まった。地下の丈夫な部屋に私や姉、大勢の人たちは隠れた。外にはまだ人がたくさんいたはずで、その人たちがどうなったのか、私は知らない。ただ、酷いことが起きているのだと、それだけしかわからない。
 マリウスは、その戦争に勝つための、最終兵器だった。
 白い服を着た町の偉い人は、姉に言った。
「これは兵器だ、『未来』に行けるだなんてとんでもない」
「兵器であるがために作られた。その丈夫さが『未来』にいける理由だと、どうして気が付かないのですか」
 それから、姉は『先』をどんどん当てていった。最初は天気を外すことなく当て、そして敵の作戦を打ち破った。姉がいれば勝てるのだと、皆が呟いた。最前線に立ち、兵に次の指示を与え、戦況はどんどん有利になっていったらしい。
 けれど、最後に姉はこう言った。
「最初に言ったことを覚えている? どうかあの子をマリウスに乗せて。行く方法はマリウスが知っている。そして、たどり着いた地で過ごす。破壊の鉄鎚が振り落とされた時、世界を救う術を得たあの子は、マリウスに乗って帰還する」
 わけの分からない言葉だった。なぜ、兵器が。何を知っているというのか。
 けれど、姉にそれを問いただすことはできなかった。
 敵陣から飛んできた爆弾。その破片が、姉に突き刺さってしまったから。姉は死んでしまった。二度と、私が姉の笑顔を見ることは無くなった。
 とたんに争いは劣勢になっていった。
 大勢の人と大きな部屋にうずくまっていた時、兵士さんが私の腕をつかんた。とても怖い顔で、「こい」と一言。きょとんとしているしかない私は、引きずられるようにしてマリウスの前に立たされた。
 私が見たとき、マリウスは起動していた。機体のあちこちから青い光がもれて。とても綺麗だった。マリウスと私だけ、とても静かだった。
 周りの大人たちは驚きうろたえていた。「誰がそんな指示をした!」そう叫んでいる人もいた。
 青い光に、まるで誘われるように私はマリウスに乗り込んだ。周りの大人たちが引きとめようとしたけれど、私は止められなかった。
 それから先、あの世界がどうなったか、私は知らない。



 うとうととまどろんでいると、マリウスの扉が開いていた。瞼の向こう側から光が当たっているのを感じる。
 ここはどこだろう。ついたのだろうか、姉や大人たちが『未来』と呼んでいた場所に。
 久々に光を受けた瞼は、なかなか持ち上がらない。僅かに開いても、光に慣れていない瞳は、風景など映しはしなかった。
 狭苦しい場所を抜け出そうと手探りでベルトを外す。転がり落ちるようにシートから離れると、案の定、地上は何メートルか下だった。
 きっと、足から降りていれば問題なかった。目が慣れてから行動を開始すればよかった。そんなことを思っても、今さら遅い。
 とにかく、頭を庇うより早く私がした行動は―――
「っ―――!!」
 数拍遅れてやってきた恐怖に、悲鳴を飲み込む。「大丈夫?」と頭上から声がしたかと思えば、誰かの腕の中にいることに気がついた。焦りが収まり、落ち着いてきたところで息を整える。だんだん視界も慣れてきて、私を受け止め地面との衝突から救ってくれたのが、そう年の変わらない男の子だと気がついた。
 なぜ、マリウスから落ちてしまったのだろう。
 呆然と、私は私に問いかけた。

 私の世界では、ごく一部の人間が「まほう」と呼ばれる不思議な力を扱えた。姉は扱えなかったけれど、私は扱えた。父も、母も。父の父も、母の母も、私の一族は、『まほう一家』と呼ばれる一族だった。
 あぁ、だから姉は先が見えたのだろうか。
 まほう一家に生まれながら、魔法を扱えず。その引き換えに、『先』を見ることができたのだろうか。
 ならば私は?
 基本であるはずの、宙を浮くことすらできなくなった私は?

 ぼんやりと考え込んでいると、目の前の少年が私に問いかけてきた。
「落ちるとき、何か叫びかけてたけど……」
 彼の問いかけに、私は力なく首を横に振った。
 何も言わずに、下ろして欲しいと彼の胸に手を押し当てる。その意味に少年は気がついてくれて、すんなり地面に下ろされる。息をつけたのも束の間、膝から力が入らずにその場に倒れこんでしまった。
「大丈夫か?」
 彼は慌てて私の横にしゃがみこみ、私の手をひいて起こしてくれた。私は苦笑しながら、小さな声で「ありがとう」と呟く。

 鮮明に見えるようになった視界をめぐらして、この世界の様子を見る。
 泣きたくなるほど、緑が溢れていた。森があって、遠くの方には山がある。湖があって、草原があった。見たことも無いほどの、美しい色彩。「綺麗な場所」私がそう呟くと、「ありがとう」と彼は笑った。
 じっと、私は彼の笑顔を見つめた。とても綺麗な目と髪の色をしている彼は、それでも気取り屋でなく、それが酷く不思議な気がした。あの世界では、見目の良い人というのはそれが普通だったから。
 柔らかな金の髪は優しくて、笑うたびに細くなる宝石のような緑色は綺麗だった。あんまり見つめていると、その宝石が再び細くなり、首が傾げられたことによって金の髪は横に揺れた。慌てて視線を逸らすと、彼は声をあげて笑った。

 お互い名乗りはしなかった。何故だか分からないけれど、その時はたった二人で、呼び合うことなど必要なかったからだと思う。



 ある程度落ち着いてきたところで、私は彼に問いかけた。
「ここで、何をしてるの」
 見回したところ、民家らしき物はひとつしかなかった。彼に両手を握られ、引っ張りあげられて立たされたけれど、それでも足はふらついた。仕方なく、どんな人柄かも分からない彼の腕にしがみつき、一歩一歩と進んでいった。
「空を飛ぶ研究を、しているんだよ」
 彼は、子どもをはぐらかすような笑顔で、そう呟いた。

 彼の言葉は冗談交じりだったけれど、真実だった。招かれた家は想像以上に大きく、その半分は作業場だった。そこには、大きなプロペラのついた自転車が置いてあった。
「これは何?」
「何に見える?」
 そう呟いた彼は、私にかまわず作業を再開した。放置された私は、長い間使われず動きの悪い足をどうにかしようと、マリウスと小屋の間を一日に何度か行き来することに決めた。
 彼と共に目覚め、彼と共に食事をし、彼は作業場へ、私はマリウスへ。そして夜は同じ布団にもぐりこんだ。
 もともと、異性にお互いが疎かったのもあるけれど、それは穏やかな日々だった。最初は違和感を覚えていた彼の存在にもだんだん慣れてきて、そこにいるだけで嬉しくなるような存在に変わっていった。
 この気持ちがなんという名前か、私は知らない。



 彼と共に数日をすごした。彼と私の間に語り合うものはなく、私が初めて見たものを訊ねては彼が分かりやすく説明するだけ。
 それでも日々は温かく、全てが輝いていた。音の無い生活ではあったけれど、苦痛ではなかった。そんな生活をしている中、私の各部分は回復していき、むしろ自然の多いこの世界で、今まで以上の動きを見せるようになった。そんな暮らしを続けているうちに、マリウスの存在や、姉のこと、あの世界のことも忘れた。罪悪感などはなかった。
 ただひとつ、暮らしていく中で気がかりがあるとすれば、彼の研究のことだった。
「飛べそう?」
「ムリかな」
 本当に残念そうに息を吐くものだから、私まで泣きそうになってしまう。息を詰まらせると、「そんな顔するなよ」と彼は私を励ますためだけに、無理して笑うのだった。

「今日は、街に行ってくる。昼までには戻るから、いい子にして待っていろよ」
 彼はそう言って、朝からいなかった。寂しくて、世界のあちこちを歩き見てまわった。湖に触れて、森に触れて、山に触れた。泣きたくなるほど美しい、壮大な世界だった。











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