久々にやってきた町。そこは平和そのもので、非日常とは無縁の世界に思えた。
レンガ色の石畳に、色合いの保たれた町並みは、緑の中で暮らす自分には珍しく、綺麗だとさえ思う。
「お前さ、女の子と一緒に暮らしてるって?」
カフェで待ち合わせをしていた兄に問いかけられ、俺は心底驚いた。
「なんで知ってるんですか」
「一度、お前の様子を見に行かせたことがあったんだよ。俺は忙しくていけないからさ」
ああ、と一応うなずく。監視されているようで、気分は良くなかった。
「そしたら、お前と二人で笑ってる女の子がいたんだって。その様子じゃ、本当みたいだな」
「たしかに、います」
「どんな子か聞かせろ」
なぜ、そればかり聞いてくるのだろう。いつもは研究のことばかりのクセに。俺はそう思いながら首をひねった。
なぜ、兄はこんなにも楽しそうに笑っているのだろう。
「そういわれても、どう言っていいか……」
困惑したままそう返すと、兄は嬉しそうにこう提案する。
「それなら、俺が質問をしよう。お前はそれに答えればいい。―――年は?」
「僕と同じか、それより下―――」
「目と髪の色、長さは」
「黒い髪です。とてもまっすぐ綺麗で―――。長さは、あの子の背中にかかるほど。目の色は……どうでしょう? 海の色、と言いますか。青なんですけど、緑ともいえる」
「ふーん、―――背丈、背格好」
「えーと、小さいです。肩幅も華奢で、こう両手を広げると、すっぽり収まりますよ。あと、見た目どおりとても軽いです」
そこで、兄の口が止まった。どうしたのかと目を見ると、困ったようにその目は泳いでいる。
「兄さん?」
声をかけると、兄はガシガシと頭をかいた。たっぷりの沈黙の後、一言呟く。
「すっぽり収めたことが、あるのか?」
「え?」
だいぶ言葉を選んだつもりの兄の言葉も、俺にはよくわからない。
「だから、こう両手を広げて―――」
「抱きしめたことは、ありますよ?」
そもそも初めて出会った時、あの子は歩けなかった。何があったのかは、聞いていないし聴くつもりも無いためよく分からないけれど。
それに、同じ布団で眠っている。もともとベッドもひとつしかないし、家や家具も俺一人が住むものとして作られ備えられたため、当然ベッドは一人用。幸い、今は季節的にも肌寒く、身を寄せ合って眠りに付くのは、苦ではない。最初の頃こそあの子が寝付けなさそうだっただけで、今ではごく普通の日常だった。
「……まさかお前」
言いかけたところで、兄は口を閉ざした。あまりにもわかりやすく中途半端な言葉の切り方に、俺は兄を凝視する。
「なんですか?」
「いや、これ以上は……はしたない質問になりそうだ。やめておく」
「どれ以上……?」
眉を寄せると、兄は「これ以上はいい。ありがとな」そう言って笑った。
それからほんの少し言葉を交わしていると、兄は道の向こうに目をやった。とたんに、こちらがぎょっとするほど表情を輝かせる。
「今日、お前を呼んだのはさ、紹介したい人ができたからなんだよ」
兄はそう言って、走り出した。俺は黙ってカフェの椅子に座ったまま待つ。兄は人ごみから一人の女の人の手を取り、こちらに舞い戻った。
「俺の、世界一大切な人だ」
そう笑う兄は、とても幸せそうに見えた。俺も、自然と笑っていたように思う。そんな俺たちを、どこか楽しそうに女の人は見つめていた。
兄の紹介を、最初は大人しく聞いていたが、いっこうに終わらないので彼女が止めた。そしてこちらを見て、俺の名を呼ぶ。驚き瞬いていると、女の人は綺麗に笑った。
「彼から話、聞いているわ。『空を飛ぶ研究』してるって。それで、町から追い出されたって」
嫌なことを言われた。固い口調で「違いありません」と言う。明らかに敵意を持った口調だったのに、女の人は笑顔を崩さなかった。
「もしも成功したら、私も乗せてね。一度で良いから、空を飛んでみたかったの」
それは、数々のからかいの言葉とは違った。お願いをされていると気が付いて、慌ててうなずく。
そういえば、と兄は俺に問いかけた。
「例の女の子、名前は?」
聞かれて、瞬く。
「……聞いてないです」
そういうと、心底呆れた顔をされ、慌てて顔を背ける。兄の横に立つ女の人は、「何の話?」とくすくす笑った。
「ばかだなー。名前くらい聞けよ」
「二人きりだから、名前とか呼ぶ必要ないって―――」
「で、自分の名前も言ってないのか?」
「……」
「ばっかだなー」
さっきより語気強く高々に言い放たれた。正直、返す言葉はない。
「なあに? 一緒に暮らしてる子がいるの?」
女の人に尋ねられて、俺は正直にうなずく。
「いつから? 町で知り合った子?」
これにはどう答えて良いかわからなかった。嘘をつかないように、言葉を選ぶ。
「数日前に海のほうからやってきて」
あの大きな機体は、確かに海―――あるいは空―――からやってきた。
「足が良くなかったみたいで、ああ、今はもう大丈夫なんですけど、なんとなく、流れで一緒にいるんです」
改めて説明すると、確かに変な感じだった。
「で、名乗りあってないの?」
「はい」
「だめよ。名前は呼び合わないと」
「なぜですか」
間髪いれずそう問うと、女の人はクスクスと笑いながら人差し指を立てた。
「名前を呼ばれてみればわかるわ」
そして、彼女はその俺の名前を呼んだ。心のどこかで、「違う」と何かが呟いた。
俺の名前を呼んで欲しいのは、その声じゃない。
何かがわかりかけた気がした。何も言わずに立ち上がると、「帰るのか?」と兄が聞いた。
「昼前には戻ると言ったので」
「食うものとか、消耗品は、今までどおり月に二度持っていかせる。買出しの必要は無いからな」
「はい」
「女の子のいるものとか、どうしているのよ。彼女、聞いた限りじゃ着たきり雀とか、そんな感じに聞こえたんだけど」
女性の言葉に、俺と兄は揃って首をかしげた。
「だから、服とか―――」
俺自身眉を寄せた。二人揃ってのんびりすることなどは数回だ。俺はだいたい作業場にいる。その間あの子が何をどんな姿で何をしているかなんて―――。ふと、首をかしげた。
「どうしてるんだろう」
小さな呟きを聞きつけた彼女の顔は、みるみるうちに強ばっていった。勢いよく立ち上がり、兄と俺を順よく見つめる。
「買い物に行きましょう。今すぐ」
俺と兄は、そろって顔を見合わせた。
彼女が買い物をしている間、俺と兄はぼんやりと立っていた。荷物持ちと財布のためだけにいるため、やることは少ない。
俺からあの子の容姿を聞きだし、何色が似合うかと問われて、時間たっぷりかけて導き出した答えを告げると、彼女は楽しそうに笑っていた。
「似合う色を男の子にそこまで一生懸命考えてもらえるなんて、その子も幸せよね」
はぁ、と気の抜けた返事しか、できなかった。
服の間を行ったり来たりしながら、「野山で着る服なんだから」など、彼女は呟きながら服を自分の腕にかけていく。その服は、当然女の子のための服だった。
次から次へと彼女が入るお店も、当たり前のように客は女の子ばかり。
ああ、あの子は女の子なのか。
ぼんやりと、俺は思った。
自分とは、違うのか。
夜眠る時に、いつも思う違和感を思い出した。
だから、あんなに身体は小さくて、腕や肩は細いのか。
買い物が終わった時に渡された荷物は、想像に反して多くなかった。彼女自身、いろいろ考えて選んでくれたことがよくわかる。どうして見も知らぬ女の子の為、こんなにしてくれるのか、心底不思議だった。
荷物を受け取り、兄と女の人に手を振ってその場を立ち去る。とても良い人だったな。そう思って、もう一度振り返ると―――
二人は口付けを交わしていた。
見なかったことにして、慌てて向き直る。真っ白になった頭をふり、足をゆっくりと進めながら息を吐いた。
なんだ、今のは。
本で何度か『そういう』描写を目にしたことはあるし、町にいた頃に数回見た劇でだって見たことはある。けれど―――
物語の中だけのものではないことに、俺は改めて気が付いた。そうか、そういうことか。何かが判った気がする。あの子を思い浮かべると、身体の中が熱くなった気がした。自然と、笑顔になる。
早く、帰ろう。
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