彼は言った言葉を守らず、昼すぎに帰ってきた。どうして遅くなったのか、聞こうと彼を見上げる。彼はなにやら不思議な顔をしていて、なんだか問う気持ちが削げてしまった。
きょとんと見上げている私に、彼は荷物を突き出す。
「これ、お土産」
中を見ると、衣服が入っていた。驚いて再び顔を上げると、彼は苦笑していた。
「いままで気がつかなくて、ごめんな」
その表情はいつもと違った。とても優しい目だった。思わず見とれて、我にかえって顔をそらす。ちらりと彼を見上げると、その目はやっぱり優しかった。
なにか、変だ。いつもと違う。
横に並んで食事をしているときにだって、いつもはすぐに食べ終わって作業場に行くはずなのに、今日に限っては食べ終わっても席を立たなかった。
頬杖をついて、私をひたすら眺めている。それが、ただでさえ遅い私の食事をさらに遅くさせているということに、彼は気付いているのだろうか。
何度も、私のほうに手を伸ばしては引っ込めるという動作を繰り返していた。私が気付いていないとでも思っているのだろうか。いい加減不思議に思ってきたので、手を伸ばしてきたところで彼を見る。すると、彼は一瞬固まって、その手を私の頭に置いた。わしゃわしゃと髪をなでられる。どこかくすぐったくて、嬉しかった。
夜になると、私は寝室へ向かった。彼は後からやってくる。それを待つのが好きだった。
けれど、今日は待てども彼はやってこない。何事かと作業場に向かえば、目が合った瞬間顔をそらされた。
「どうかしたの? 眠らないの?」
「君と一緒には眠らない」
「どうして?」
訊ねても、彼は答えなかった。ただ、よくわからない言葉を、彼は言った。
「違いをね、街で知ってしまったからだよ」
さらに私が首をかしげると、彼は苦笑した。
「兄に恋人ができていたんだ」
それだけ言って、同じ言葉を繰り返した。「だから、君と一緒には眠れない」分からなくて、わからないことが悔しくて、わからないことが悲しかった。どうしてどうして。今までと同じじゃいけないの。私は彼の横に座り込んだ。
「寝てていいよ?」
「……」
私達は、結局朝まで作業場にいた。
彼と一緒に眠らない日々が続いて、なんとなく寂しい気分を抱えたまま季節の移ろいを眺めている時、ふとマリウスを思い出した。それと同時に『まほう』のことを。
家の一室、寝室として使っている部屋から、廊下を覗き込み、彼が作業場にいるということを確認する。そして、部屋の中心へ戻った。目を閉じる。きっとできる。マリウスから降りる時は使えなかったけれど、あれは体の機能が正常に動いていなかったのだ、力もソレと連動してしまったに違いない。体の一部が退化して使えなくなることに恐怖は感じなかったのに、力が使えなくなることには、吐き気がするほど怖かった。
「っ」
吐き気をこらえて、記憶を探る。どうやって力を使っていたか、と。
そう思った瞬間、体が軽くなった。それと同時に、頭を強く天井にぶつけ、何かが切れたように私は数センチの高さから落ちた。
「イタタタタ……」
痛みはあったが、心底ほっとした。大丈夫、まだ使える。まだ―――飛べる。嬉しくて、窓を開けた。身を乗り出して、体を浮かせる。まだ飛べる。それだけのことがただ嬉しくて、窓から外に飛び出した。
視界の隅に、人影。
いけない、と思った時には、浮力は消えていた。
家の裏に落ちた体は、何箇所もしたたかに打ちつけていた。息を呑むような悲鳴が聞こえて、バタバタと足音が近づいてくる。この世界には、彼しかいない。
「なにをしたんだ!」
「えーと」
空を飛べるなんていったら、嫌われやしないだろうか。何故だか、それだけが酷く気にかかった。
嫌われたくない、と強く思った。
「どうして―――っ」
胸の奥が痛かった。目の前の彼は、怒っているような顔をしていて、それがひどく怖かった。泣きたくなるほど、恐ろしかった。
「何をしたんだ」
抱きしめられて、思わずその体にしがみつく。「ごめんなさい」それだけ、ただひたすら謝った。「足を滑らしたの」と言うのは簡単だったけれど、彼にだけは嘘をつきたくなかった。
私のその行いが、どれほど彼の肝を冷やしてしまったのか、気付かないまま、彼と眠る日々が戻った。
ある日、ドーンと遠くで、響くような大きな音がした。私は家から飛び出して、音のした方角を見つめる。大きな黒くて細長い、先のとがった物が、空から降ってきた。それは無情にも、美しい世界の草原へと突き刺さる。
「何っ」
わけのわからない私が悲鳴をあげる前に、彼が「あぶないっ」と叫び、私の体を引き寄せ抱きしめた。マリウスよりも大きなソレは、自分の居場所を伝えるように、その場で轟音を響かせ光を放ち、形も変えぬまま静まった。
「あれ、何?」
「あれは、ミサイルだよ」
その言葉の響きに、心臓が止まるかと思った。
私は知っていた、その言葉の響きを。酷く恐ろしい響きだと。
ソレは使い道としてもそうだったけれど、私にとって、ひとつの合図でもあったのだ。
―――破壊の鉄鎚が振り下ろされた時。マリウスに再び乗り込み、帰還する。
ああ。
思い出したときには、体中が悲鳴を上げていた。
帰りたくない、帰りたくない。帰ってなどやるものか!!
けれど、それは叶わないことと知っている。この世界に来ることができて、彼に会えたことが奇蹟なのだ。ありえないことだったのだ。
これは最初からそう定められていて、もしも帰らなければこの世界が消えてしまう。何故だかわからないけれど強くそんな気がしていた。
私がこの世界に来て、何かを得て、そしてあの世界を救う力になる。姉は確かにそう言った。
それは最初から定められていたことで、私がそうしたからこの美しい大地が今ここにあるのだと。
でも―――。
千切れるような思いの中、ふと私は顔を上げた。
なぜ、私はこんなにも拒んでいるのだろう。
唐突にふってわいた疑問は、なぜか胸の奥にいつまでも残った。
―――帰らなければいけない。
その一言を、彼に告げられぬままでいた。相変わらず彼の様子はどこかいつもと違っていて、時折酷く優しい目で私を見る。その目がどこか落ち着かなくて、今度は私が彼を避けていた。
気付いてはいけないと、心の奥で警告音が鳴っていた。
視界の隅に黒いミサイルを残したままの草原に、私はねっころがっていた。
「何か見えるか」
近づいてくる足音共に、そんな声がふってきた。視線を逸らして、首をふる。どこまでも透きとおった空があるだけだ。この世界では、珍しくもなんともない。―――黒い煙に包まれた空しか見えないあの世界では、話は変わってくるのだが。
ふと、真横に振動が来て、彼がすぐそばにやってきたのだと知る。何も言わずに、彼の方を向くと、彼はその場に膝を着き、私を上から覗き込んできた。
「どうした。浮かない顔をしている」
「そう?」
「なにかあったのか?」
それは、数日前まで私が問いたかった言葉だ。
結局彼の言葉には返さず、彼の首の辺りに手を回した。もっと近くにいて欲しかった。もう二度と会えなくなると思うと、さらに切なかった。彼は一瞬驚いた顔をして抵抗したが、すぐに力を抜き、私の腕の引くままに顔を近づけた。
ただ、彼の近くにいたかった。あわよくば、抱きしめたかった。それだけのはずだった。
それなのに、酷く真剣な瞳と出会ってしまった。
不思議に思う間もなく、頬に柔らかな感触が訪れた。何がおきたのかさえ分からなかったために、悲鳴も上げず、ただきょとんとまぬけな顔をしていたと思う。けれど、彼は顔を真っ赤にして、私から少しはなれた。
「ごめん」
小さな声で告げられたそれは―――どこか切羽詰っているようだった。何もわからない私は、彼の袖を引く。彼は驚いた顔で私を見た。その反応の意味が分からずに、私はきょとんとしていると、彼は笑った。
笑って、「嫌われたかと思った」そう言った。
「待っていて」
彼はそう言うと、一度家へと戻った。そして、あの大きなプロペラのついた自転車に乗って現れた。私は身を起こして、
「飛べる?」
訊ねると。
「飛ぶさ!」
明るい声が返ってきた。
彼はペダルに力を入れる。こいで、こいで、こぐと―――。車体がふわりと浮かび上がり、確かに彼の乗った自転車は宙をこいでいた。
「あなたの力だわ。私の力じゃない。あなたの力!」
私の力のことなど、彼は知らない。けれど、私の口はそう呟いていた。
嬉しくて、大きな声で笑いながら再びねっころがった。両手を伸ばして、気の済むまで笑い声を響き渡らせる。
少しはなれたところに自転車は着地して、彼は私の元に戻ってきた。私は草原に身を横たえたまま、さっきと同じように彼に両手を伸ばした。今度は、さらに力強く引っ張る。ただ近くに感じたかっただけ、抱きしめようと思っただけ。
「――――――」
予想以上に近づいてきた彼の顔。
私は彼のソレに唇を塞がれて、思わず強く目を閉じた。この行為の名を、私は知らない。顔に熱がこもった。体の急激変化に、私自身が戸惑っていることを感じた。
「ごめん」
長い沈黙から唇が離れた瞬間、彼はそう呟いた。息を継げたのも刹那で、次の瞬間にはまた唇をふさがれていた。今度はついばむように、何度も、―――何度も。
いつの間にか、私は彼の腕の中にいた。頬に彼の手が当てられていて、腰の辺りに彼のもう片方の手があった。どうしようもなく逃げ出したいような、その背に手を回して抱きしめたいような、わけの分からない気分だった。
彼の手はとても熱くて、口付けは激しかった。離れる感覚はどんどん短くなっていき、息が足りなくなって、それでも、彼を突き飛ばす気になれなかった。
戸惑いはしたけれど、嫌な気持ちにはならなかった。
ただ、切ないくらい、彼の思いが伝わってきて、泣きそうだった。
その想いの名前を知らない私。
知っていたら、別の何かを返せたかもしれないのに。
「あのさ」
真剣な目で私を見つめる彼が、ポツリと口を開いた。
「なあに?」
私は小さな声でこたえる。
「名前を教えてくれないか」
何を言われたのか、一瞬わからなかった。そういえば、名乗りあっていなかったのだと思い出す。けれど、彼がどうしてそんなことを言い出したのかがわからなかった。
迷いながら名前を告げると、彼は小さく復唱した。私の中で、パチリと何かがはじける。耳が熱かった。
「名前を教えてっ」
急かすように彼にすがりつく。今すぐ彼の名前を呼びたかった。
彼は嬉しそうに優しく笑って、私の耳元で囁いた。
たまらなくなって私は彼に抱きついた。名前を呼ぶと、彼は一層笑顔になった。
家に戻って食事をして、眠る時になって、私は彼を振り返る。
「どうした?」
彼はそう言って、私の手を引いた。身体の熱はおさまらず、そのまま同じ布団に入るのはなんだか不思議な気分がした。
布団の中、私の背中には彼の腕がまわっていた。その感触に、ますます変な気分になる。
私を腕に抱えたままに、彼は言う。
「君のことを教えてくれないか」
初めて私のことを、彼は聞いた。驚いて、私は口ごもる。
「いやなら、いいんだ」
「そんなことない」
私は慌てて呟く。何を言っていいか、わからなかった。結局、記憶のあるところから自分のことを話すことにした。
「物心が付いて何年かした時、私はとても悪いことをしてしまった。それは、絶対許されないこと。殺されてもおかしくなかったと、姉は言っていた」
こんな風に、自分のことを誰かに話すのは、初めてだった。
「それから先、外に出してもらえることは一度もなく、何年も何年も家の中で過ごしていた。―――大きな争いが、始まるまでは」
「大きな争い?」
「そう」
彼は考え込んだ。こちらの世界でおきた『大きな争い』を思い浮かべているのだろう。残念ながら、該当するものは無いだろうけれど。
「大きな争いが始まってから、私を含めた町の人たちは、地下にもぐった。私にとっては大して変わりの無い生活だったけれど、周りの人たちはどんどん気が滅入っていくようだった。『太陽が恋しい』と言う声を、何度も聞いた。姉だけが、気丈に皆を励ましていたのを覚えてる」
彼は小さく相槌を打った。
「それから、いろいろあって私はマリウスに乗ることになったの」
「マリウス? あの青い機体のことか?」
きょとんと私は彼を見上げた。
「どうして、青いと?」
起動していないマリウスはただの灰色の塊だ。彼は、いつその青い光を見たのだろうか。
「あれが空の向こうからやってくるのが見えて、俺は外に飛び出した。空を飛んでいるようにも見えたし、空から落ちてくるようにも見えたから。草原に降り立ったあれは、とても綺麗な青色の光に包まれていた」
そっと、彼の手が私の頬に触れた。
「君の目の色みたいに」
自分の目の色を、特別そんな風に言われたのは初めてだった。真っ赤になって、硬直すると、彼はクスクスと笑った。からかわれたのだと気が付いて、真っ赤な顔のまま、私は続けた。
「そして、あなたに会った」
今まで生きた十数年分の話にしては、ずいぶん短く終わってしまった。それだけ? と言われるのが、なんだか怖かった。
「いろんなことがあったんだね」
けれど、予想に反して彼はそんなことを言う。
「この世界の人びとは、なんとなく生きている」
彼の言い方に、どこか違和感があった。
何がおかしい? 自分に問いかけても、分からない。
次第にうとうとしてきて、彼の胸に顔を押し付けた。優しい彼の手が、何度も私の髪を梳いている。気持ちよくて、目を閉じた。
「引き止める、術を持っていたら―――」
私の意識が遠いところにあるとき、小さな声で彼は何かを呟いた。ハッと顔を上げて、私は彼を見つめる。
「なにか言った?」
なんでもないよ、と笑顔を向けられた。なんとなくはぐらかされたような気がして、なんとなく見ていられなくなって、私は顔をそらした。
視界の隅にいる彼は、笑顔で私を見下ろした。私に優しい口付けして、優しい声で囁く。
「お休み」
その声音はどこか寂しげで、ああ、知っているんだな、と眠りに落ちていく中、私は漠然と思った。
この人は、私が消えることを知っている。
そして、私がそれを告げられないことも知っている。
なぜだろうとも、思わなかった。ただ、この人は知っているんだと、切なくなった。
ならば、草原での切ない行為は、その合図か。
サヨナラ、という―――。
泣きたくなった。どうしようもなく切なくなった。どうして、どうしてと心の中で呟いた。全ては私が招いたことなのに。
彼が眠りに落ちてから、腕の中から抜け出した。マリウスへ向かい、力を使い飛び上がって、シートへの上と座り込む。ベルトをして扉まで閉めて、私は動きを止めた。
膝を抱えて、帰りたくないと何度も唱えた。
ここにいたい。
彼と、いつまでもここに―――。
どれくらい時間がたったのか、真っ暗闇のマリウスの中ではそれも感じ取れない。せめて、この世界を目に焼き付けようとウインドウをクリアにした。
―――このまま、心臓が止ればよかったのに。
暗闇の中、彼がそこにいた。向こうからは見えないはずなのに、ウインドウのこちら側にいる私を、間違いなく見つめていた。
たまらなくなって、無我夢中でベルトを外し、扉を開き、シートの上から飛び降りた。力を使うことも考えず、ただ最初と同じように彼に受けとめてもらって。
「リセ」
彼の口が、私の名前を囁いた。
思わず彼を凝視する。彼は確かに笑っているのに、その笑みは私に「サヨナラ」と言っていた。私は何も考えず、首を横に振る。聞き分けの無い子どものように、嫌だ嫌だと、喚き散らすこともなく。ひたすら無言で首をふった。
「愛してる。忘れない」
彼はそれだけ呟いて、口付けをした。何も言えない私をマリウスへ押し上げ、一歩下がる。
彼は、噛み締めるような、なんとなく笑っているとわかる笑顔で私を見つめていた。
逃れられないのだ、と。私は自分に言い聞かせた。
私が戻って世界を救わないと、この世界は消えてしまう。
彼も、消えてしまう。
のろのろとした動作で扉を閉めて、ベルトをする。次第に涙が滲んできた。
この世界で私は何を得たの。
彼との思い出だけなのに。
破壊の鉄鎚は無情にも落とされたから。それだけの理由で帰らなければならないなんて。
ウインドウ越しに見える彼は、もう何も言わない。ただ、私が消え行くのを見ていた。
―――帰りたくない。
けれど、それでは世界が消えてしまう。
彼も、消えてしまう。
それだけは、耐えられなかった。
次から次へと零れ落ちる涙をそのままに、私は口の端を上げた。かろうじてそう見える笑みを浮かべる。滲んだ視界を彼に向ければ、彼も笑っている気がした。
「いつか、かならず」
会いに来るから。
忘れないから。
私はあなたを忘れない。
ずっと、ずっと。
私はあなたを忘れない。
彼のいた世界で何を得たのかは、彼女は結局わからなかった。けれど、彼女は彼の世界のためだけに、自分の世界で力を振るった。
彼との思い出を糧に、彼との思い出だけを糧に。いつか必ず、彼の元へと舞い戻るのだ。そう自分に言い聞かせて。
それが『愛』と呼ばれるのだと、結局彼女にはわからなかった。
戦のたびに彼女が立ち、勝利を収めているうちに、彼女はソルシエールという称号を得た。ソレと同時に、『過去の罪を許そう』と、町の偉い人に告げられた。
彼女はうなずいただけだった。喜びなど何も無かった。世界に戻った彼女は、ただの一度も笑わなかった。
世界が本当に救われる時まで。
彼に会える、その時まで。
その戦いの最中、彼女はあるものを作る。ソルシエールが扱うにふさわしい、一本の杖を。
その名は『シエル』
ある人が、どういう意味かと尋ねたとき、ようやく彼女は笑ったのだ。
「とても愛しい響きでしょう」
それは、彼女が愛した唯一の―――。
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