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■神様の歌■第一章■第一話■

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 ルースが診療室の扉の前へ来たとき、中からドクターとジンさんの話し声が聞こえた。
 声の空気に何かを感じ、ルースは立ち止まる。
「傷は残るぞ――。あの子ならあるいは……」
「そりゃ、不可能だろう」
 何事かと聞き耳を立てた瞬間、背後の扉が音を立てて開け放たれる。
「ドクター! 連れてきたわよ!」
 ソナタは大きな声と共に、診察室へと入る。その後を、ティムが追い。大きなため息をついてルースも続いた。
「顔を見せてくれ」
 ルースは、診察台に横たわっている少女を確認するなりそう言った。身を乗り出して、少女の顔を覗き込む。ティムが首を傾げて問いかけた。
「兄さん?」
「いや、なんでもない」
 ルースはゆっくりと身を引く。ルースは、何か引っかかるのか、部屋の隅で眉を寄せ、考え込んでしまった。
 ティムは、いつにない兄の様子に、首をかしげてソナタを見る。視線を受けたソナタも、肩をすくめた。
「とりあえず簡単な手当てをした、後は目が覚めるまで待って、何があったのかを聞こう」
「それまで、俺達は奥で話してる。この子から目を離すなよ」
 ジンとドクターは、そう言って診察室から出て行った。



「……」
 突然、黒髪の少女は目を覚ます。
「ドクター!」
 ソナタが奥の部屋へ叫んだ。しかし、声が届いていないのか、ジンとドクターが来る気配は無い。しびれを切らしたソナタは、診察室を出た。
 黒髪の少女は上体を起こし、きょとん、と周りを見回す。自分の状況が把握しきれていないらしい。ぼんやりと、取り留めなく辺りを見ている少女に向かって、ティムは安心させるように微笑んだ。
「ここはラデン王国の診療所。心配することないよ」
 そんなティムに対して、少女はきょとん、とした表情を変えない。だんだん不思議に思い、ティムは首をかしげながら名乗った。
「僕はティム。あっちはルース。さっき出て行ったのはソナタだよ」
 対する反応は無かった。焦点の合っていない目は、ぼんやりとティムを眺めていた。
「あのさ」
 ティムは、少女をじっと見つめながら、呟いた。
「僕と、どこかで会ったことある?」
「ティム。何を言ってる」
 突然妙なことを言い出した弟に、壁際まで下がっていたルースが、眉をひそめながら言った。
「あ、えっと。なんか、黒髪の女の子って、滅多に見ないから」
「女に限らず、黒髪自体少ない。だからってどうした? 黒髪の女の子に、会ったことがあるのか?」
「うん……」
 ルースの問いに、ティムは言葉を濁した。
「……夢に、一度だけ」
 ルースが、口を閉ざす。
「本当に一回だけなんだ。自分でも分かってるよ、おかしいことを言ってるって。でも、忘れられないんだ、悲しそうなあの表情が……。夢で見た黒髪の女の子は、笑ってたよ。本当に悲しそうなんだけど、笑ってたんだ。その笑顔が、僕、ずっと忘れられなくて……」
「いつ見た夢だ?」
 言葉の途中に入ったルースのセリフにも、ティムは気分を害することなく答える。
「分からない。ずいぶん昔に見た夢だよ」
 そうか、とルースは返した。ティムは、そんな兄を見ながら、少しだけ躊躇した後、問いかけた。
「ねえ、兄さん。僕らに姉さんなんて、いないよね?」
「いない」
 厳しい声で即答され、ティムはびくりと首をすくませる。それほどの覇気が、ルースの声にあった。
「姉ちゃんなんているわけ無いだろ。何、夢の話を真に受けてんだよ」
「そうだよね。そんなわけ、ないもんね」
「欲張りだな、ティムは。こんなに良い兄貴がいるってのに」
 そう言って、ルースが少し笑った。珍しい兄の表情に、ティムも笑顔を返す。
「うん。ごめん」
 かすかに、黒髪の少女も笑ったような気がした。その時、廊下へと続く扉が開く。
「ドクターたち連れてきたわよ」
 ソナタがドクターとジンを連れて戻ってきた。黒髪の少女はゆっくりとそちらへ顔を向ける。ティムとルースも、視線は扉へと向けた。
「悪いなソナタ、呼んでもらって」
「ホント、ノックも聞こえてないって、いったい何の話をしてたのよ」
 呆れたように肩をすくめるソナタを見て、ジンは再度、「悪かった」と苦笑する。
 そんな様子を、ルースはじっと見詰めていた。
「名は名乗れるか?」
 ドクターが、黒髪の少女の目を覗き込んでそういうが、少女はびくりと体を震わせて、手を自分の胸元に持っていき何も言わなかった。ティムには、怯えているようにしか見ない。
「そんなびびんなって」
 ぽん、と少女の頭にジンの大きな手が載った。
 少女は、じっとジンを見つめる。
「んー……」
 ジンは少しだけ考え、少女の耳元に顔を寄せた。
 ティムたち四人には聞こえなかったが、何かを囁いたようだった。少女はハッと表情を変え、小さく、躊躇いがちに頷く。
「ダメだドクター」
 何がダメなのか、今のやり取りではさっぱり分からず、ドクターは黙ってジンを見上げる。子ども達も静かにジンの言葉を待った。
「これは、森の主に任せたほうが具合が良さそうだぞ。自分のこともわからず、熱も下がらない。この診療所ではどちらとも、どうしようも無い。今すぐこの子を、森の主のところへ連れて行くべきだ」
 森の主? ティムが一瞬だけ眉を寄せ、ドクターを見る。明らかに、その表情は曇っていた。不思議に思いながらソナタのほうを見ると、こちらは対照的に輝いていた。
「なんか、やな予感が」
 ルースにだけ聞こえる声量で呟くと、ルースは同意として、呆れたような息を吐いた。一方では、ソナタが身を乗り出すようにしてドクターに訊ねる。
「森の主って、魔女さんのことでしょ? 何々、私行ってもいいの?」
「ソナタ」
「いいじゃない、ね? ほら、魔女さんと仲良くなっておけば、今後のためになると思わない?」
 夢中になっているソナタは、ドクターの言葉など既に聴いていない。それに、と彼女は続けた。
「男の人だけに、女の子一人任せるわけにもいかないし? 今すぐ行かないとまずいんでしょ? この国唯一意のお医者様が国を空けるわけにもいかないし?」
「……」
 ジンは黙ってソナタを見つめる。心底困った様子でドクターはソナタを説き伏せようと口を開いた。
「ソナタ、そればかりは聞き入れられんよ。魔女は危険だ。それに、王位第一継承者を国外にそうやすやすと出すわけには……」
「あら、魔女さんが住んでいるのは、ラデンの森でしょう? 国内だわ」
 上機嫌で言い返すソナタを見て、ドクターは額を押さえた。
「そういうことだけは、しっかり覚えてるよな」
 ルースが盛大なため息を吐いた。

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