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■神様の歌■第三章■第一話■

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「起こしてくれたらよかったのに……」
「まだ言っているのか」
 昼もとっくに過ぎた頃、ラリスは何度も未練がましく呟いていた。
「だって、ルースは夜明け前に出るつもりだったって。そう言ってたじゃん」
 結局、ラリスが起きたのは朝日が昇ってからだった。申し訳ないことこの上ない。
「まあ、別に。夜までには着くと思うし」
「だけど……」
 ラリスはまだ食い下がろうとルースを見上げる。ルースの足が止まっていることに気が着いて、ラリスは慌てて振り返った。
「ルース?」
「……」
 表情を固めたまま、ルースは動かない。ラリスは戸惑ったままルースの視線を追った。
「誰? 知ってる人?」
 アリナーデ方向の街道に、普通の女の子が歩いていた。茶色い髪を、耳元で二つにくくった、一見普通の少女。
 驚いて固まっているルースに、向こうも気がついたらしい。足を止め、小首をかしげているのが見えた。
 やがて、
「あー!」
 甲高い声が響いて、女の子が走り出す。さすがにラリスも驚いてルースの後ろに隠れた。
 状況がつかめず、息を止めてラリスは女の子の接近を見つめる。その直後、はじけたような音がした。
「あんた今までどこにいたのよ! 王女様は! 何とか言いなってば!」
「ってぇな!」
 僅かにルースの身体が揺れる。ラリスは目を丸くして状況を見守っていた。
 女の子は、今しがた振り上げた手を、ヒラヒラと振りながら、暁色の瞳でルースを睨む。
「よくもまぁこのわたしの前に顔出せたわねぇ。後悔しなさい。許さないから」
 声を低くしてルースの胸倉を掴んでいる女の子に対して、ルースは何の抵抗もしなかった。
 それが気に入らないのか、ふん、と鼻を鳴らして女の子はルースから手を離す。そこで、ラリスの存在に気がついた。
「ありゃ。連れがいたのね。ごっめーん」
 目が合い、ラリスは身を硬くする。
「なんだよ」
 ラリスを庇うようにルースが女の子に問いかけた。それを驚いたように女の子はルースを一度見る。
「この子、女の子……?」
 何度かルースとラリスを見比べて、あぁ、もしかして。と女の子は呟いた。
「もしかして、貴女がセーラ?」
「っ、馬鹿」
 女の子の言葉に間髪いれず、焦った声でルースが呟いた。何がなんだかさっぱり分からないラリスは、やっぱり息をつめて二人を眺めている。
「一回だけなんだけどね、ルースがね、寝言で言ったの。貴女の名前」
 ラリスのことを『セーラ』だと思い込み、女の子は、クスクスと楽しそうに笑った。それを見ながら、ラリスは顔を真っ赤にして両手の平を女の子に向ける。
「人違いだよ。ボクはラリス。あなたは?」
「……まったまた〜。ルースに庇われるなんて、大したものよ? 祭りの日、街中の女の子から誘われておいて、誰一人として相手にしなかったんだもの。一緒に歩いているなんて、わたしじゃない他の子に見られてたら、『新月の夜に気をつけろ!』ってなもん」
 信じようとしない女の子を見て、困ったようにラリスはルースを見上げた。
 ルースはため息をついて、女の子に向き直る。
「シア。この人はラリス。俺が今世話になっているのがコイツの兄貴なんだ」
 ルースに睨まれて、彼女はつまらなそうに肩をすくめた。
「ラリス、ね。そう呼ぶ。わたしはシンシア。シアって呼んで。―――ところであんた達、どこに行くつもり? アリナーデ?」
 コロコロと調子を変える人だ、とラリスは思った。先ほどまで騒がしかったのに、今はもう落ち着いた笑みを浮かべている。
「俺たちは北のシエスタに向かってる。俺はラリスの付き添いだ」
「シエスタぁ? あんなとこまで歩きで? あんたたち気の毒ねぇ」
 シンシアの軽口に、ルースは黙ったままだった。ラリスもそれにならう。
「―――残念だけど。アリナーデからは行けないわよ」
「え」
 ルースは無言でシンシアを見下ろした。衝撃に声をあげてしまったラリスは、慌ててルースを見上げる。
「何かあったのか?」
「両国の王が、っていうか、シエスタ王が一方的に国境を封鎖したの。何か事件があったって言う話も聞かないし。物資の行き来は相変わらず。人だけが行き来できなくて、ホント意味わかんない。今、幼き末娘であらせられるスティール姫が、王を説得してるって聞いたわ」
「そうか」
「どうするの?」
 時間はあれど、『行かない』という選択肢だけはありえない。
「とりあえず、アリナーデに行こう。野宿するわけには行かないからな」
「うん。わかった」
 うなずいて、あれ、とラリスはシンシアを見た。
「何?」
「シアさんは、大丈夫なの?」
 もうじき日が暮れてしまう。今頃この辺りを歩いていて、女一人で大丈夫なのだろうか。
「わたしは平気。夫が馬に乗って後から来るから」
 目を丸くして、ラリスは固まる。
「……え? あの……その……」
 みるみる顔を真っ赤にしてあちこちへ視線を逸らすラリスを、ルースとシンシアは笑みを浮かべて眺めていた。
「その、ボク、勘違いしてたみたいだ。……シンシアさんって、いくつなの?」
「ルースの一つ下」
 今度こそ、ラリスは何もいわずに目を見開いていた。
 とうとうこらえきれなくなったシンシアの笑い声がその場に響く。
「あー、可愛い! それにしても以外だわ。ルースったら、こんな可愛い子が好みだったなんてね。こりゃ、ラデンの子じゃ比べ物になんないわ」
「馬鹿。この人はそういうんじゃねえよ」
「どうかしら。ずいぶん気に入ってるじゃない?」
 ラリスはまだ固まっていて、シンシアの笑いも抜けきっていなかった。それでも、困って固まっているラリスを見ると、可哀想になってくる。ルースは苦笑してラリスを示した。
「そろそろどうにかしてやってくれ」
「ふふ、そうね」
 呟いて、シンシアはラリスの頭をなでた。
「これでも、ラデンで数少ない貴族の娘だからね。生まれたときから決められてた相手っていうのがいたのよ。それで、半年くらい前に、正式に結婚したわ。十四のときだったかしら?」
 夫を思い出しているのか、幸せそうに彼女は首をかしげる。そんなシンシアを、確かに綺麗だとラリスは思った。
「ラリスは? なんでそんな格好してるの。女物の旅装だってあるのに、男物の服を着て。女の一人旅なら分かるけど、ルースがいるのに」
「え、ボクはだって、ほら」
 ねぇ? と誤魔化すつもりでルースを見上げると、
「なんでだよ」
 とさらに追い詰められてしまった。
「よく見たら、ラリスってだいぶ可愛い顔してるもの。着飾ったら街中の男があんたのことほっとかないわよ? ルースがピンチよ?」
「気にしないでくれると嬉しいんだけどな……」
「なんでよ!」
「女の子扱い、苦手なんだ」
 心底困っているラリスに、救いの手は伸びない。不服そうにシンシアはラリスを見つめていた。
「あーあ。もったいない。今度うちにきなさい。ルースが赤面するくらい着飾ってあげるから」
 今度はルースが苦笑した。シンシアの中で、ルースとラリスはそういうことになっているらしい。訂正するも無駄だとルースは既に悟っていた。
「あら、立ち話してたら……」
 シンシアは言いながら背後を振り返る。
「夫がきちゃったわ」
 街道の向こうから馬の影が見えた。初めて見る馬に、ラリスは目を見開く。
「きれいだね」
 意図せず漏れた言葉に、ラリスは慌てて口を塞ぐ。シンシアはクスクスと笑った。
「いつかルースに乗せてもらいなさいよ。乗馬は初等部の課外授業で取ってたはずだから」
 そうでしょ? と視線を投げてくるシンシアに、ルースは肩をすくめた。
「たかが数回の授業で乗りこなせるか」
「あら。あんたの才能ならできるでしょ」
 それとも、無理だって言うの? シンシアの言葉に、ルースはそれ以上返さなかった。そうこうしているうちに、シンシアの夫が馬に乗ってすぐそこまでやってくる。
「シンシアさん? あれほど先に行くなといったのに」
「ごめんなさい。なんとなく気が急いてしまいましたの」
 先ほどとは打って変わった柔らかな言葉遣いに、ルースは呆れて言葉が出ない。ラリスも感心したようにため息をついていた。
 手を差し出され、それを掴む前にシンシアはルースを振り返る。
「ルース、逞しくなったわね。一年前とすっかり違って見えるわ。成長してるとか、それもあるけど、それだけじゃない。何かがあんたに背伸びさせてる」
 シンシアの言葉は止まらなかった。口から漏れる言葉はまるで暗示のようで、馬上から差し出されていた腕は、いつの間にか消えていた。彼女の夫も、シンシアの言葉が終わるのをじっと待っている。
「わたしには、それがとても危うく見える。足元を一度でも払われたら、あんたきっと立ち上がれないわ。そんな弱さが見えるのよ」
 ルースは黙って聞いている。ラリスは、静かにルースを見上げた。彼の金色に輝く瞳は揺れていた。
「だからね、ルース。どうか立ち止まらないで。あんたの力の源、しっかり掴んで離さないで」
 言って、シンシアは馬に触れた。察した夫が手を伸ばす。夫に抱かれるようにして前に収まったシンシアは、さらに続けた。
「ルース、あんた本当に良い男になったわ。わたしの夫の次くらいに」
 彼女の夫はそれを聞いて苦笑していた。女性に負けず劣らずの美しい顔が、愛しげにシンシアを見ている。つられてラリスも微笑むが、ルースの表情は硬いままだ。
「良い男が打ちひしがれるのは、見ていられないもの。いつか、挫けた時はうちにいらっしゃい。ひっぱたいて、気合を入れなおしてあげるから。―――王女様によろしくね。民はあの方が戻ってくるのを待っているからって。ルース、あんたに会ったこと誰にも言わないって約束するから安心してね。それじゃ、元気で」
 その言葉を最後にして、馬が走り出す。ラリスは黙って遠ざかるその姿を見送った。

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