*

■神様の歌■第四章■第2話■

■1■
BACK TOP NEXT 

 静かな廊下を歩いていると思えば、すぐ近くの部屋から物音が聞こえた。男の怒鳴り声と、何かが壊れる音。
 案内を頼んでいた侍女が、その部屋の前で立ち止まり、まだ扉も開けないうちから辟易する。
 静かに扉を開き、滑り込むように、部屋の中に入った。
「あいつはどこに行った!」
「で、ですから」
「どこにもいない! 一日も、俺に、何も言わずっ」
 また、ガシャンと音がした。
 四部屋で構成された豪勢な居室、その室内を移動し、ようやく騒ぎの輪にたどり着く。何人もの侍女が、一人の青年を落ち着かせようと慌てていた。
「こんなこと、今まで一度だって―――」
「ですから、あの方はスティール様がラークワーナへお連れになりました。代わりに別の―――」
 侍女の壁をかきわけ、言葉を発していた一人の肩に、手を置く。青年の姿も見つけ、静かに眉間に皺を寄せた。
 ハッと、侍女は振り返る。
「あっ」
 驚きに小さな悲鳴を上げて、一つ礼をしたあと、下がる。
 侍女の輪の中心、子どものように顔を伏せ座り込む青年に、静かに話しかけた。
「代わりに、俺がきた」
 ただ一言。それだけで、彼はパッと顔を上げる。
 白いまつげに縁取られた、灰褐色の瞳が、驚きに見開かれた。
「あ……」
「なにか、不服か?」
 尊大な態度で言い捨てる。下から見上げてくる間抜けな顔を、せせら笑った。
「どうして、戻って……。ルーセ」
 片手を挙げて、その発言を止めた。
「死んだ少年の名を口にして、どうするつもりだ」
 言うと、灰褐色の瞳が、白い眉が、苦しそうに歪む。好きなだけなじればいいだろ、と、彼は言う。
 再び伏せた顔。真っ白な髪を見下ろして、吐き捨てるように言った。
「お前には、そんな価値もない」
 周りの侍女から、そんなことっ、と悲鳴交じりの小声が聞こえたが、気にしない。
 若い侍女の一人が、なんてことをと呟くのを、年長の侍女が小さく咎めた。
「これだけは覚えておきなさいな。あれは、何をしても罪を問われない存在です」
 静かに、そういうのが聞こえた。
「アウルの代わりに、俺がきた。好きなだけ、あいつの代わりにすればいい」
 青年の傍らに膝をついてそう言うと、静かに彼は顔を上げた。顔を歪めて、縋るように服の袖を掴んでくる。
「……」
 何も言わない。こちらも黙って、その白い頭に手を乗せた。何度か、優しく叩いてやる。
 同い年、ほんの三ヶ月遅く生まれただけの青年に、かつて兄と慕われた。
 嫌いで嫌いで仕方ないのに、それなのに、彼の願いを知っているから。
「よく生きてたな、クロウ」
 ホッとしたような顔でこちらを見た青年に、労いの言葉を投げかけた。


 シエスタ国、首都、王の住まいや国内の主要機関が集まっている、白亜の宮。
 四部屋構成の居室は、王と同等かそれ以上か。本来ならセイクリッド家の長として、白の屋敷に住まうはずのクロウ。
 侍女たちは黙って見ていた。
 自分の主、聖なる者、世界の息子、この世界の要。一度癇癪を起こせば、幼い頃から付き従っている一人の少年以外、止められないものだと思っていた。
 あの少年でさえ、主を止めるのにだいぶ時間を使うというのに、それなのに。
 年長の侍女の誰もが知っている、突然現われた金髪の青年は、一瞬で主の興味を奪ってしまった。しかも、誰よりも位の高いはずの主が、青年に対し敬語を使っている。
 ―――この青年は、誰。
 城勤めが八年に達していない侍女たちは、揃って同じ問いを浮かべた。
 明るい金髪に、琥珀の瞳。年配の侍女から、主にそそぐものと同様の、優しい視線を向けられる、謎の青年。

 彼女達は知らない。
 ほんの数日前まで、他国で彼が、『ルース』と呼ばれていた者だということに。
 ルースは、小さく息をついた。
「疲れているな」
 呟いて、周囲の侍女の何人かに指示を出す。
「寝台の用意と、衣服の着替えを。少し寝かしたほうが良い」
「はい」
 指示された侍女のほとんどが年配で、若い侍女たちは戸惑う。ルースが顔見知りだけを選んだのだと言うことに、気付くわけが無い。
「クロウ、ちゃん食事は取っているのか」
「……関係ないでしょう、……兄さんには」
 拗ねたような口ぶりに、ルースは苦笑する。まだ、兄と慕うのかこの馬鹿は、と、内心の苛立ちを押さえ込んだ。
「王后陛下は、城内にいるか?」
「はい、この時間帯なら、お部屋にいるかと」
 適当な侍女に問うと、慌てたように返事が返ってくる。
 答えを聞いて、ルースは紙とペンを取った。さらさらと書き込んで、答えた侍女に手渡す。
「これを、陛下に渡してきてくれ」
 理由もなくそれだけ言うと、侍女は不思議そうな顔をする。作業している年配の侍女に急かされ、慌てて彼女は出て行った。
 ルースの背後から、呆れたような声が返ってくる。
「まさか―――」
「好きだっただろ?」
 こともなげに問えば、クロウは黙って首を振った。否定ではなく、呆れてものも言えない、というように。
「陛下にそんなことを頼むのは、もう、兄さんくらいです」
「あの人は、王と違って優しいから。……つい甘えたくなる」
 二人の会話を耳にした年配の侍女が、隣室から顔を出す。呆れたように、小言を言った。
「帰ってきて早々、女王陛下に特製スープを頼んだのですか」
 その言葉を聴いて、ぎょっと侍女達がルースを見る。ルースは肩をすくめただけで、その視線を無視した。
「今日は夕方までここにいる、お前たちは下がっていい」
 それだけ言って、一人長椅子に腰掛けた。その背中には、これ以上の問答を受け付けないといった風で、年長の侍女は一つため息をつく。
「かしこまりました」
 言って、クロウの着替えをルースの前に置いた。
「こちらをお願いしても?」
「引き受けよう」
 侍女のほうを見ずに答えると、侍女は一歩退いてルースに礼をする。外の侍女を引き連れて、女達はクロウの居室から去っていった。
「……兄さん」
「兄と呼ぶな」
 相手にもわかるほど、機嫌の悪そうな声で、ルースは言い放った。クロウは一瞬口ごもる。ルースの座るソファに駆け寄り、背もたれの方からルースの顔を覗き込んで、言い返した。
「……では、なんと呼べばいいんですか。名前のない、あなたを」
 ルースは眉間に皺を寄せてクロウを睨む。クロウがほんの少し身を引いたのを見て、背もたれの方へと身を捻る。人差し指を、クロウの額に押し付けた。
「俺を呼ぶな。言っておくが、俺はアウルみたいに付きっ切りでお前の世話なんか出来ないからな。スティールの手伝いがある。あの人にも誰か付いていないと危険なんだ。この城は魔の巣窟だと、お前だって知っているだろう? 二人同時に付きっ切りなんてできないからな。それを先に言っておく。これから、フィラデリスのシンシアからも呼ばれているから行かないといけない。そして夜になったら、俺は家に帰る」
「……家?」
 クロウが問い返した瞬間、ルースは人差し指を離した。クロウの目を見ない。
 様子に気が着いて、クロウは問い詰める。
「家って、どこですか? 貴方に帰る家なんて無いはずじゃ―――」
「セイクリッドの、フィーリの屋敷」
 言いながら、クロウの視線を逃れるように立ち上がる。部屋を抜けて、扉を開く。
「少し、スティールのところに行ってくる。気になることを思い出した」
 王后陛下のスープが来るまでには、戻る。そういい残して、ルースは部屋を出て行った。
 その姿をクロウはしばらく見送って、
「フィーリの、屋敷……」
 息を吐く。 「結局、古巣に戻るのか」
 長椅子、先ほどまでルースが座っていた辺りの近くに自分の寝巻きが置いてあるのを見て、静かに手に取り、その辺に放った。
 寝台に向かいながら、襟元を緩める。着替えないまま寝台に横たわり、目を閉じた。

 かつては兄と慕い、誰よりも憧れた人。
 国に名前を奪われた、法に捉われぬ、世界で唯一の、『何にも属さぬもの』と呼ばれる者。
 彼は、名を奪われ、あらゆる記録を消され、存在を消された。その代わりに、どの国の法にも捉われない、特別な存在。シエスタ国王の命にのみ従う、城の高官の一人となった。
 たった七歳の少年が、先代の失敗により、没落した家のために。
 名前も、経歴も、家族も失くした。
 だから、彼の呼び名は『Lose』。
 実の父より授けられた、外で暮らすための偽の名だった。


BACK TOP NEXT