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■神様の歌■第四章■第2話■

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 この世で最も安心できる腕に、背中のほうから優しく抱きしめられて、シンシアは無意識に目を閉じていた。
 予想していたとおり、頭のてっぺんに口付けを落とされる。予想してはいても唐突で軽率な行為に、唇が離された瞬間シンシアは抗議した。
「ベルツバルトさ」
「フォルスト、と」
 その抗議も、簡単にさえぎられる。王の住まう宮殿内で、いくら人通りの少ない廊下だからって、節度というものがあるだろうに。彼はシンシアの肩を掴み、彼女の身体を反転した。向き合う形になり、シンシアは彼の目をじっと睨み上げる。それを見ても、彼は笑いをかみ殺して再びシンシアの髪に唇を落とした。
「名前で呼んでください。何度もそう言っているでしょう」
「それは、あなたの自業自得というものですわ」
 近づいてくる顔に次の彼の行動を予測して、シンシアは自分の口元と降りてくる彼の口元の間に、手のひらを割り込ませた。男の姿をきちんと視界に入れる。ほかならぬシンシア自身の手でゆるくみつあみにした、赤みがかった長い金髪。深緑の目を持つ彼の名を、フルネームで言ってのける。
「フォルスト・ベルツバルト・セイクリッド。わたしに初めて会ったとき、家名もファーストネームも名乗らなかったじゃありませんか」
 フォルストは何を隠そうクロウの兄であり、フィーリやルースの遠縁であり、シエスタの代表貴族であり、フォルスト自身が、その巨大なセイクリッド家を束ねる長であり、そしてシンシアの正式な夫であった。
 七つも離れた夫に対して、シンシアの抵抗は全て無意味になる。人の話を訊いているのか、彼はシンシアの手の平にも口付けを落とす。
「ベルツバルト!」
「別にいいじゃないですか、夫婦なんですから」
「こういうことは、廊下でやることじゃありませんわ。ここは宮殿ですもの。王から正式にあてがわれた客室とか、身内しかいない離宮とか、とにかく、誰もいない―――、一番望ましいのはセイクリッドのお屋敷や、自分達の寝室ですけど―――」
 夢中でまくし立てる中降りそそがれる夫の視線に、シンシアは言葉を切る。フォルストと目が合って、次に、自分が何を口走ったかを考えた。思い出す前に、目の前の、赤みがかった金髪。その向こう、緑の目が、笑みの形に変わる。
「シンシアは、たまに大胆ですよね」
 言葉の意味を察して、シンシアは慌てる。自分の言ったことは間違ってないはずだ。なのに、墓穴を掘った気分になるのは何故だろう。気が付けば壁際に追い詰められていた。
「へ、あ、そんな意味じゃなくてですね? あの」
「続きは屋敷で、ということで」
 言うにもかかわらず、その場でシンシアのツインテールの紐を解いている。わけがわからない。言っていることとやっていることが全然違う。
「べ、ベルツバルトさ」
「訊きませんよ」
「えええ」
 すっかり髪を下ろされ、うろたえるシンシアの頭上で、フォルストはさらに笑みを深くする。今度は、別の何かを含んで。
「今回は、あなたが悪いんです。―――勝手に屋敷を抜け出しただろ。シンシア?」
「っ―――。ず、ずるい。そんな変わり身」
 家の中と外でと、彼の性格はまるで違う。前触れ無く本性を現した夫に、シンシアは脱力した。彼には一生敵わない気がする。もっとも、敵う必要も無いのだけれど。
「だって、ルースがシエスタにきていると耳にしたものだから……。ベル……あなたとフィーリの会話が聞こえてしまいましたの。そしたらもう、いてもたってもいられなくなって」
 背中には壁、目前に迫る夫。パニック寸前で、シンシアは何とか理性を捕まえていた。
「それで、オレ以外の男のために、走ったのか」
「妙な言い方しないで下さい!」
 真っ赤になって言い返せば、フォルストはこれ以上ないほど楽しそうに笑った。なんなんですか、とシンシアが怒れば、フォルストは屈託の無い笑顔をうかべて。
「可愛いなぁ」
 と呟く。
 そのまま手を取られ、屋敷へ向けて歩き出す。シンシアは始終、フォルストのほうを見なかった。  ずるい、と、内心で呟く。
「ずるいよ、フォルスト」
 小さな声で名前を呼べば、その横、シンシアの頭のてっぺんから、さらに数十センチ上の辺りで、フォルストは嬉しそうに微笑んだ。
(勝てるわけ、無いじゃない)
 火照る頬に冷たい手を当てた。夫に右手を取られ、肩を抱かれ、屋敷までエスコートされる。ラデンの屋敷でこんなことをされたことは無い。シエスタの風習とラデンのそれは違いすぎた。恥ずかしくてたまらなくなることがある。
 いつも保っているはずの余裕が、この人の前でだけなし崩しになるのだ。
 それは、何故?
(勝てるわけ、無いのよね)
 思い当たり、シンシアは一人ため息をつく。
 そっと前を向いているはずのフォルストの顔をうかがおうと視線を上げれば、彼の深緑はまっすぐシンシアを見ていた。慌てて顔を逸らす。
(だって)
 たまらない気持ちになって、思わず口元が笑みの形に変わった。
(こんなに、好きなのだから)
 ありえないと思っていた幸せを、シンシアはたしかに持っていた。
(この人が、わたしのような小娘に本気にになるわけないって、分かってはいるけれど)
 むけられる笑みに笑顔を返して、シンシアは繋がって右手に、そっと力を込めた。


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