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■神様の歌■第四章■第4話■

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 ラデンに向けて出発しようという日の前日、真昼間、ティムはラリスと部屋で本を眺めていた。荷造りは大体終わり、後は船の――それも、色々と都合のいいラデン運営の国際船の出発を待つだけだ。
「ティム様」
 廊下から聞こえてきたバスチスの声に、ティムは顔をしかめる。入ってくるその姿を目で追いながら、責めるような声音で文句を言った。
「様なんてつけなくったって――」
「城より書簡が届きました」
 言葉をさえぎってまで伝えられ、差し出されたものに、ティムは口を閉ざす。恐る恐る受け取り、蜜蝋で止められた封を切った。何枚かの便箋をゆっくりと目で追い、途中でぴたりと止める。
「これ、ウィッチ家の当主宛てになってるよ?」
「確認しましたが?」
「……」
 まさか、とティムが顔色を変える。ラリスを振り返ると、彼女は笑いをこらえるように床に伏していた。
「まさか」
 今度は声に出す。その反応を予想していたようなバスチスは、そ知らぬ顔で、
「ティム様が、ウィッチ家現当主にあたります」
 さらりとティムが懸命に否定したがっていることを言ってしまう。思わず額を押さえた。
「意味が、わかりません……」
「先代はドゥーノ様でした。ウィッチ家当主は世襲制ではありますが、奇跡の姉弟が生まれた場合、弟君が当主の座につく慣わしです」
 黙りこんだティムを見て、バスチスはその手から手紙を取り上げる。笑いの収まったラリスの肩を叩き、差し出した。
「一応、目を通していてください」
「これ、なんなの?」
 ラリスがバスチスに問いかけながら手紙を読み始める。読みながら、嬉しそうにへぇ、と囁いた。
「これってつまり、ラークワーナの使者として、他国見聞に行けってこと? たしかに、これがあれば王女とともに失踪した疑惑のあるティムは、単なる疑惑ってだけだから、ラデン国内でも自由に動けるね。さすが。ラークワーナ王家の紋と、ウィッチ家の紋があったらほぼ最強じゃない?」
 ラデン国内での知名度は低くとも、王家はウィッチ家を知っている。その歴史的血筋の高貴さも、世界に及ぼす力の強さも。
 ソナタの計らいだろうか。ラリスは考える。ラナイトもいい人に思えたけれど、ラリスの記憶は大分古く、今現在の彼がどういった人柄なのかは見当もつかない。少しだけ考え込み、俯いたままのティムの肩に手を触れた。
「これ、ありがたく貰っておこうよ。ウィッチ家当主様?」
「それ、すごくやめて……」
 力の入っていないティムの声に、ラリスはクツクツと笑った。
「相当の額になるであろう金貨も用意されています」
「金貨?」「金貨?」
 ラリスとティムの言葉が重なった。バスチスに差し出された袋を受け取る。二人して覗き込み、二人してのけぞった。
「……」
 絶句する少年少女を前にして、バスチスは沈黙を守り続ける。一方、過剰とも言える二人の反応も無理はなかった。二人が買い物に使うのはたいていが銅貨で、良くて銀貨だ。金貨などこれまで一枚も拝んだことが無いというのに、袋いっぱいに詰まった金貨を差し出されてしまっては絶句するしかない。
「こんな大金持って歩けないよ……」
「体のいろんなところに分けて持ってた方がいいね。上着の内側に何枚か縫い付けちゃおう」
 ラリスが金貨の袋を受け取り、しまった荷物を再び取り出す。バスチスは一礼して退出して行った。
 ラリスの邪魔にならないようにそれとなく手伝いながら、ティムはあくびをかみ殺した。
「使者って、見聞って、具体的に何をすればいいんだろう?」
「まじめに考えなくて良いと思うよ。動き回れるようにするための、単なる好意だと思うから」
 ふうん、とティムは言って、ラリスから少し離れる。金属が触れあう、どことなく不穏な気配の音色に、ラリスは縫い付けをしていた手を止めた。
「……慣れたよね」
 危なげない手付きで、長剣の手入れを開始するティムの様子を見て、ラリスはため息混じりにそういった。
「このお屋敷……ウィッチ家屋敷郡の敷地内から出られない以上、他にやることがなかったからね」
 ティムが笑って受け流すを見て、そんなはずは無いとラリスは目を細めた。
 ここの蔵書はかなりのもののはずだ。ラデンの図書館や村で、膨大な量の書物に目を通しているといっても、ティムが読んだことのない本、知りえるはずのない知識、打ち込めるものは、他にもたくさんあったはずだ。
 剣を振るい、技を身につけるような、不穏な事柄以外にも。
「ルースよりも、強いんじゃない?」
 ルースが剣を振るう姿を見たことはないが、なんとなくでラリスは言った。
 けれどきっぱりと、まさか、とティムが笑う。まるで拒絶するように。
「兄さんこそ、何年も剣を習ってるんだ。ほんの数ヶ月の僕なんかじゃ、とうてい及ばないよ」
 そう言って、ティムは剣を鞘にしまった。手入れに使った道具も、次から次へと片付けていく。その手の動きに迷いはなく、自然ラリス表情は曇った。
「明日だ、ラリス。わかってる? ラークワーナで船に乗って、マーリンを経由して、ラデンで降りる。港で一度別れて、ラリスは魔女の森へ、僕は城下町へ。一泊したら村に行くから、別れた二日後の夕方、日が沈む前に港で落ち合おう。そのまま帰るか、引き続き滞在するかは、その時に。アウルは、ラリスについていくんだったっけ?」
 この場にいないアウルのことで、ラリスはうなずく。
「大丈夫。ちゃんと頭に入ってるよ」
 ティムにとっては一年半ぶりの帰宅だった。ちょっと嬉しいな。ティムはそう言って笑って、立ち上がった。部屋に戻るのだろう。ラリスは座ったままティムを視線で追い、扉の向こうに消えるまで見つめていた。  閉ざされた扉の音が、耳の奥で今も響く。
 一人になったラリスは、笑った。自分がしようとしていることを、再度頭の中で考えて、寂しい表情で呟いた。
「……最低」



* * *



 走った。

 ひたすら走った。捕まったらどうなるだろう。そんなことを考えながら、あの生活が繰り返されるだけだと、皮肉気に笑いながら。ただ、抱えた紙切れと帳簿を離さないように、それだけを気をつけて。
 今となっては憎いだけの目立つ赤い髪は隠しようもなく、追っ手を気にしながら暗い夜道をひた走る。
 全て計画していた。自由になる日、国際船の日程、見張りの交替する時間、客の出入りの瞬間。
 助かると確信していたわけではない。けれど、まだ、世界は優しいと信じていた。辛いことばかりの人生だったからこそ、こんな時くらいは、セイカ様が救ってくださると。
 港が見えた。
 もつれそうになる足を懸命に動かして、桟橋をかけぬける。水夫は驚いて引きとめようとしたけれど、棒切れのような腕は、その手をすり抜けて甲板まで行き着いた。崩れ落ちるようにその場に座り込む。けれど、まだ終わっていない。きっと船はまだ出港しない。それまでに、追っ手は港につくだろう。水夫が彼らの言い分を聞きいれれば、きっと連れ戻される。
 ここまでだろうか。
 それとも、セイカ様が微笑んでくれるだろうか。


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