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■神様の歌■第四章■第4話■

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「出てこい女ぁ!」
 怒号が響き渡った。
 甲板に出ている乗客の何人かは港を振り向き、港にいる船の関係者がざわめく。声を発した男は、何人もの男を引き連れて、桟橋に足を乗せた。
「俺たちから逃げようとはいい度胸じゃねえか。俺たちがそうそうお前を手放すと思うのか? なめた真似すんじゃねぇ」
 膝を抱えてうずくまる。あいつらの声はもう聞きたくなかった。自由になりたかった。
 だから、叫んだ。
「契約の更新はしないと言ったわ! 初期の条件はもうこなしたはずよ! 倍以上と言ってもいいはずよ! 契約書も帳簿も全部確認したもの、契約違反は一つもしてないわ!」
「したさ! 店主に無断で出ていくのが、どういうことかわかっているんならなぁ!」
 そんなのは知らない。ただ見落としているのかもしれない。あいつらの言葉が本当か嘘かもわからない。自分が正しいと言い切れるほどの学もない。
 唇を噛んだ。
「それ、契約書と帳簿?」
 すぐ傍で聞こえた少年の小さな声に、肩を震わせる。接近に全く気付かなかった。振り向く度胸もなく、俯いたままうなずいた。少年が身動きする気配と、衣が床をこする音がした。
「それは、正当な理由なの」
 少年の声が、響き渡る。男たちがなんだかわからない言葉を怒鳴り返した。少年は動じることなく、言い返す。
「まともな職業の人には見えないんだけど、この船、国際船だってわかってる?」
 それが何だと、男は返した。
「国際船内では、停泊国に関わらず、国際法が適用される」
 さらりと呟かれた言葉に、その場が静まる。
 国際法というのは、平民にはほとんど関係のない法律だ。気にすべきは国の為政者。国が、民を虐げるような国を裁くための、法律。実際に国に対して施行されたことはない。
 そのため、少年を除いたこの場にいる全ての人間は、当然知らなかった。国際法の中に、五国全てに適用される法律が存在することを。そしてそれは、国際船や各国間の街道でのみ適用されることを。かつて五国共通の法を持とうと働きかけた者達もいたが、失敗に終わっている。けれど、今存在している国際法は、そんな彼らの功績と言っても良い。とは言っても、誰の記憶にも残っていない功績であるのだが。
 よって、各国内での拘束力がほとんどない国際法を、人々が知っているわけがなかった。
 この少年は何を言い出すのかと、その場の全員が彼に注目していた。
「強制労働及び規則の捏造に関して、国際法労働の章第一項で強制労働は禁止されており、同じく第五項、雇い主による労働者への規則の捏造は違法とされる。……どうだろう」
 少年は、変わらず落ち着いた口調で問いかけていた。
「そちらが、法に合わせてもかまわないというのなら、こちらにはこの人の持ってる契約書と帳簿を確認、のち、双方の言い分を聞き、裁決を下す能力と資格があるけれど。幸い、出港にはまだ時間があるし」
 男たちがざわめいた。様子が変わったように思う。恐る恐る顔を上げると、そこには黒い上着にフードを被った、体つきからして恐らく自分よりも幼い少年の姿があった。
「……何者だ」
 男が呟いた。
「別に」にこやかな声で少年は言う。
「さる高貴なお方の、目と耳だよ。国際法及び各国の法律がそれぞれ頭に入っている程度の、ね」
「……へえ。だがあいにくとなぁ、俺たち下賎な身の上はそんなもの知ったことか。なんだよなぁ、少年」
「うん、だろうね」
 少年のあっけらかんとした声と直後、スラリ、とした金属音に、背筋が凍る。男たちが剣を抜いていた。
「そこにいる奴等もどうせ知らない。邪魔立て出来るのは、お前一人ってわけだ」
「そうだね」
 少年は慌てた様子も見せず、長い上着を払った。上着に隠れて見えなかった長剣に、男たちは口元をゆがめる。
「命知らずめ。床に這いつくばり命乞いすればいいものを」
 少年は返事をしなかった。剣を振るうには不向きとしか言いようのないフードもそのままで、ゆったりとした足取りで桟橋に向かう。
 そんな少年の背後から、声をかけるものがいた。
「気をつけなよ」
 少年は、足を止める。
「君も、手出ししないでよね」
 一言言って、彼は男たちに向き直った。
 いつでもどうぞというように、肩をすくめて見せる。
 なめられていると思ったのだろう、男たちはフンと鼻を鳴らして、一斉に斬りかかった―――。


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